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焦がれるほどの思いなら

7月8日
読了時間: 23分

筆者|うい  ジャンル|オカルト・ホラー

 


 若草と花厳はいつものように、二人で仕事明けに酒を酌み交わしている。今日は個室ではない。各席で静かに盛り上がりを見せる店内の壁際の席に案内されていた。昔馴染みの居酒屋もいいが、手狭なエレベーターをあがった先にある流行りの店の予約が取れたのでこうして花厳を誘い飲みに来たというわけだ。

 仕事関連の話にも区切りがつき、食事のメインの皿も片付いたころ。追加で頼んだアラカルトと若草のクラフトビールが届いたタイミングで、花厳がポツリと話し始めた。


 花厳曰く、もうケリがついたことだ、と出来立てのアラカルトをつまみながら。それを若草はクラフトビールのグラスを片手に聞くことにした。



 花厳は語りはじめる。それは若草にとっても記憶にある内容だった。


 始まりは二人でドライブに行った時のことだったという。あまりに制作に煮詰まっていた夜、花厳を車に押し込んだ日があった。二人を乗せた車は高速に乗り、喧騒から離れた場所で夜風に当たりに行こうという流れだった。


 車内は静かだった。それでも車のエンジン音と微弱な心地よい揺れが、二人の空間をやわらげていた。花厳は自身の神経が高ぶり張りつめていたことを自覚したのか、少しずつ体の力を抜いていく。その様子をちらりと見た若草も肩の力が抜ける気分になったことを覚えている。


 空気が和らいだところで、丁度よくパーキングエリアが近づいたためそこに入る事となった。トイレと自販機しかないような場所だったが若草は用を足しに公衆トイレへ。その間花厳は缶コーヒーを買い、屋外用のスタンド灰皿で一服しようとした時だった。


 視界の端になにかがあった。


 ふと顔を上げ周りを見渡すが、駐車場の周辺は背の低い茂みで覆われている。

 だがよく見ると茂みのなかに何かがあったという。花厳は早々に煙草を消しその茂みに踏み入った。

 そこにあったのは小さな祠だった。

 スマートフォンのライトで照らしても輪郭がぼんやりしたもので、よくわからないが花厳には祠に見える。一応マップで調べても特に何も表示されない、謂れもわからないものだった。

 土着信仰系の祠だろうか。花厳はそこに缶コーヒーをひとつおいて小さくつぶやく。


 私の作品を気に入ってくれる神様なら応援してよ、と。


 その瞬間、何かが背中に得体のしれない感覚があったという。

「思い出すとぞわぞわする……なんかこう……上から何かが……、難しいな……鳥肌が立つ感覚だった」


 若草が手を拭きながら戻ってくるなり、花厳は茂みから駐車場まで一目散に戻りながら「早く! はやくっ、スタジオ戻ろう! その……降りてきたから」と言って自身の細長い手を不格好に振り回しながら何とも言えない意図を伝えようとジェスチャーをする。加えて、眼鏡の奥の顔がこわばっていたのを若草は見逃さなかった。すぐに二人で車に飛び乗って最速でスタジオまで戻った。道中何かあったのかを若草は聞いたが、花厳は「その……降りてきたから」としか言わなかったのだ。それ以上の詮索はせず、平静を取り戻すための他愛のない会話をして帰路に就いた。そのことは若草の記憶にもあることだった。まさか、花厳のみにそのような怪現象がおきていたなんて……。


 花厳はここまで語り終えると、一息ついた。

 飲みかけのぬるくなった酒でのどを潤す。それを眺めながら若草は心配半分、呆れ半分で口を開く。


「なんですぐ言わなかったの」

「言ったら本当になっちゃう気がするじゃん……私のテリトリーに早く戻りたかったんだよ」

「ん-……、それで?」


 そこからは夢を見る日が続いたという。


 思えば花厳は寝つきが悪いと言っていた時期があった。若草からもできることはないかとアイマスクやアロマを差し入れしたものだ。その時の若草は花厳が怪現象が発端で夢見が悪いなんて知らなかったのだから。

 夢の内容は、何もない空間でくぐもった声が聞こえるという。そこでなにやら滔々と花厳に語りかける声が聞こえるのだと。

 長い夢を見続ける眠りが浅い日が続けば、花厳も参ってしまっていた。

 というより、貴重な睡眠時間を削られることに憤りを感じてしまっていたのだ。


「だからね、夢の中で言ってやったわけ」

「お……おお」


 内緒話をするように身を乗り出してきた花厳に合わせて、若草も顔を近づける。

 夢の中で夢と自覚し、自分の意思通りに動くことを明晰夢という。という前置きのあと花厳はニヤリと口角をあげた。


「悪いけど何言ってるかわからない。伝えたい事があるなら手紙でもよこしてみろって」

「うわ、挑発しないでよ……」


 花厳の宣戦布告とも取れる明晰夢内の行動が結果となったのか、次の日にはもう悪夢は見なくなったらしい。

 ところが今度は別の攻撃が花厳を襲う。花厳の自宅のポストに、封筒に入った手紙が届くようになったという。

 変哲もない茶色の長封筒。

 手紙は一日一通の時もあれば、ポストの蓋を開けるとDMに交じって、学園物創作におけるモテモテ学生の靴箱から、手紙がなだれ落ちてくる演出のように、ポストいっぱいに詰まっていたこともあるという。


 コンビニでも手に入りそうなありふれた封筒を開ければ、中身はコピー用紙のような……こちらもよくある紙だった。そこになにか黒い汚れのようなものがつづられている。汚れはよくみれば、どれも字ともつかないミミズ文字で、とても読めるものではない。


 最初は夢とは関係ない、嫌がらせかとも思った花厳だった。だが手紙は毎日毎日送られてくる。これは花厳の直感らしいが、送り主は夢の中で滔々と語りかけてきた相手だと感じた。確かに手紙をよこせと言ったのは自身であるし、日々送り続けてくる熱心さに負けてしまった。そのうえで、何が記されてるのか興味もそそられてしまったのだ。


「というわけで私、文字の対応表を作りまして」

「好奇心の鬼! その間に出来た仕事があっただろうに……!」

「はは、褒めるなよ」


 資料は膨大にあるわけだ。説明されても若草にはいまいちピンとこなかったが、似た形を辿り、花厳なりの直感・ひらめき・インスピレーション……なにやら思うところ全てを詰め込んで、差出人不明の文字対応表はできたらしい。

 内容は缶コーヒーのお礼と、花厳の才能への賛辞。そして一番多く記されていることがあった。

 それは「あなたをわたしにくださいな」ということだ。


「えっ……? 得体も知れないものから告白されてるってこと?」

「そうみたいなんだよね。まあ、まだ話は続くから聞いてって」

「うん」


 若草はビールをあおり、花厳をじっと見つめた。


「見様見真似で私も返信をした」


“私には好意を寄せる相手がいるのでお応えできません”――と……


「えっ監督好きな人いるんですか」


 先程まで口元にあったグラスを机に置いて若草が前のめりになった。

 思わぬ食いつきに花厳の方は身を引いて背もたれに体を預ける。

 真っすぐな若草の視線に居心地が悪くなりながら反論した。


「あのさ私だって人間なので好きな人ぐらいいてもおかしくないだろ」

「その話って詳しく聞けます?」

「あー……いいけど一旦この話終わらせていい?」

「あっ……うん、どうぞ」


 グラスから完全に手を離した若草が、机の上で手を組んで興味深そうに聞く態勢をとる。花厳は当時の光景を思い出しながら話を再開した。


「お断りの文章を端的に書いて、対応表と一緒に私のポストに入れておいたわけ」

「郵便ポストじゃないんだ」

「いや住所わかんないし……」

「それはそうか……そうなのか?」


 若草は小首をかしげながらも、話の続きを促すように視線を花厳に向け続ける。

 店内の片隅のテーブルに座る二人の間には妙な空気が流れていた。


「それで返信したその日、帰ってポストの中身を見た。すると私が今朝入れた手紙はなくなっていた。でも一通、いつもの手紙が入っててさ、あけてびっくり。ちゃんと日本語で書いてあったんだよ」

「へえ……対応表使ってくれたんだ」

「そう、ちょっと嬉しかったんだけど……内容がねえ……」


 肩肘を突きながら一拍置いた花厳は、ため息を一つつきながら続ける。


「“冥の頃、お迎えに上がります” だってさ」


「メイ?」

「そう、多分冥府とか、死の間際じゃないかな」

「……冥婚申し込まれたってこと?」

「おっ若よく知ってるね」


 内容に驚いた花厳だったが、日々の疲れが重なったのか、相手が今すぐ何かをするわけでもないことに気が抜けたのか。風呂に入る前に眼鏡を何とか外すことまではできたが、布団に倒れて眠ってしまったのだ。その手紙を握ったまま。


 特に夢も見ず、目を覚ますとカーテンからは朝日が差し込んいた。眼鏡をかけると、握って寝たはずの手紙がない。手元にも周辺にもなかった。一応これまでの手紙は資料になるからと、空き箱に詰め込んでおいたのだが……最後の手紙も併せて、全て痕跡も、あれだけ熱心に作った対応表すらもまとめて消え去っていたのだった。


 疲れすぎて幻覚でも見てたのかな、などと思った。しかし、花厳自身が投函した手紙はポストから消えていたわけで。なんか……不思議パワーが働いたのかなーって思って、なんてあっけらかんと話す花厳。彼を見ながら若草は聞いている間にずれた眼鏡の位置を整える。


「不思議パワーって……」

「それからはもうなんにもなし! ケリがついたから若に聞いてもらおうと思って」

「ああそう……」


 そう答えた後、若草はビールの残るグラスをにらみつけて黙ってしまった。花厳は、若草が思わぬ怪談を聞かされて困っていないかと口を開こうとしたところ、眉間にしわを寄せた若草に睨みつけられる。


「それで監督は冥婚を受け入れるわけ?」

「ええ?明日の進捗具合もわからない私が、死後のことまで決めかねる」


 そう聞くと、若草は肩の力も表情もガクリと落としてしまった。そして困った顔で花厳の方を見やる。


「かっこ悪いセリフだなー」

「フー……よかったーなんだかんだ好奇心が勝ちつつも、うすら寒い気持ちもあったからスッキリしたよ」

「それはごくろうさまでした」


 おつかれさま、とお互い会釈をしあう。そのまま流れるように、若草はスッと右手を上げた。


「ひとついいですか」


 花厳は目を細め、パテの乗ったクラッカーを口に放り込みながら調子よさげに答える。


「はいなんでしょう若草プロデューサー」

「それで、監督の好きな人って?」


 花厳はンンッと乾いたクラッカーをのどに詰まらせ咳き込みながら、つっかかったもの水で流し込む。涙目になりながら目線だけ若草によこした。


「蒸し返す? それ……。」


 手を拭いた後、居心地悪げに首の後ろをかきながら花厳は目線を逸らしてしまった。


「いやでも若に言うのは憚られるな」

「え? なに、どういう意味?」


 花厳には悪いが、怪異の顛末よりもとんでもない爆弾がこの話には含まれていた。

 花厳勝太郎にとって、婚姻を断るという恋愛感情を向ける相手がいることだ。

 若草は話の途中からこちらの件が気になっていて仕方がなかった。


「いやあ……本人に本人の話をするのはちょっと、私でも気まずいといいますか」

「……は?」

「というわけで物理的にもスッキリしたいので厠へ失礼」

「厠って……! ちょっと……監督……!……逃げたな」


 そそくさと花厳は手洗い場に吸い込まれていき、若草はテーブルで一人きりとなった。

 残りのビールを飲みきり、そして指を絡めて額に当てる。


 一旦話を整理するか、と。

 怪談の話を聞く限り、そのポストに入っていた手紙があったとしよう。だがそれは物理的に存在しなかったか、花厳にしか認識できないものだったのではないだろうか。花厳の出した手紙が消えたのは謎だが、その行為自体も花厳の認識上でしか行われていなかったものかもしれない。


 対象者にだけ認識できるものか……?


 若草は花厳の才能に惚れていた。

 才能だけではなく個人的にも。

 どうしようもない男に惚れこんでしまった自分を嘆いたのは一度や二度ではない。

 そんな相手が、さらりと言い逃げした内容と、ここまでの花厳から紡がれた怪談で頭の整理が追い付かない。


 ただふつふつと怒りが沸き上がる。 


 才能に惚れ込んでいるくせに、制作の邪魔になるようなことをしてきたのか、そいつは。それに冥の時に迎えに来るってなんだ? 得体のしれない存在に、あの才能を、あの人を、奪われるだって? それも図々しくも生きてる間はお行儀よく待ちますとでもいうのだろうか?

 若草は腹の中が煮え立つ思いだった。

 ――…俺だったら、


(生きてる間も、死後だって、どっちも監督のことを渡したりは……)



 ヴ――


 音の発生源はテーブルに置かれた若草の携帯のバイブ音だった。

 やけに大きく聞こえた気がして、若草は肩を大きく跳ねさせた。

 普段なら迷惑メールに振り分けられるであろう、差出人不明の不審なメールの通知が表示されている。受信フィルターをすり抜けた謎のメールなど、読むつもりはなかった。

 なのに、自然と指がうごいてひらいてしまったのだ。

 メールの内容は簡潔なものだった。


 件名:わたさない

 わたさない渡さない


 あ……これ、メールの送り主はきっと……

 若草には不思議と確信めいたものがあり、背筋に冷たい汗が伝った。


 メールを眺めていると同時に花厳が帰ってくる。


「仕事の連絡?」

「……っ」


 若草のスマートフォンを持つ手に力が入る。

 その間も手の中でバイブ音は鳴り続け、メールが何通も送られてくる。

 気味が悪かったが、音が邪魔にならないようにスマートフォンをリュックに投げ入れた。

 もう一通も開いてやりはしない。

 今はそれよりも大事なことがあるのだから。


 席に着いた花厳が意を決したという表情で、若草に顔を向ける。

 彼からどんな言葉が紡がれるのか、その表情をみれば一瞬の不安などかき消されるように胸の高揚の方が勝っていた。

 花厳が肩に力を入れてこちらを見てくる。その存在が若草には愛しくてたまらない。


「若、私……」


 その時、ぞくりと……壁際に座る若草は自分の後ろに得体も知れない感覚が襲った。

 実際にはコンクリート造りに洒落たアートが額縁に収められているというのに、真っ暗な大穴があいてそこに吸い込まれていくような……。一人のような複数人のような視線が自分を突き刺して体中をがんじがらめにしているような。喧噪が遠ざかるような感覚。ここだけ、自分だけが別の空間に投げ込まれてしまったような――


 のまれては、いけない。若草は硬直した身体に力を入れて自分の太ももに拳をたたきつける。


「監督!」


 弾かれたような若草の声に、花厳は瞬きをひとつする。


「ゴメン、ちゃんと聞くから店、出よう」

「そ……そりゃあそうだ、うん、さすがに二人で」


 荷物と伝票を掴んで店を後にする。鞄の中からバイブ音はいつの間にか鳴りやんでいた。

 背中にピタリと何かがついてきているような感覚を振り払うかのように、会計を手早く済ませてエレベーターを待つ。


 その間に若草の不安もあったが、怒りがさらに増していた。


 渡さない、だって? 今から自分の手に入るであろうこの男を、まだ欲しいと願うのか。

 渡さないのはこちらの方だ。

 夢や手紙でしか干渉できない存在に、焦がれ続けた思いの強さだって、一ミリも負ける気がしない。


「渡さない」

「若?」


 3人乗れればいいような、小さなエレベーターが到着する。ドアが開くと同時に若草は花厳の肩を掴んで室内に押し込んだ。バランスを崩した花厳がエレベーターの狭い空間でよろめきながら背後の鏡に背中を打ち付けていた。そんな花厳にお構いなしというように、若草は肩を掴む手と反対の手で、壁についたパネルの行き先表示を一階に指定していた。


 ヴーヴー……


 今度は花厳のスマートフォンが鳴り始める。若草にはその送り主が手に取るように分かった。一方で花厳は状況をつかみきれていないのか、揺れた瞳で若草を見下ろすばかりだった。突然エレベーターに押し込まれたこと、震え続けるスマートフォン、自分を壁に押し付けたままの、普段では取らない行動をする相手。

 花厳は状況を整理するかのように、尻のポケットに入れたスマートフォンに手を伸ばそうとした。


「ダメ」


 その手も若草は強い力で掴んで制止させる。

 花厳は肩と腕を掴まれたまま。至近距離で見つめ合う二人。

 地上までの短い時間がやけに長く感じる。

 視線を絡ませながら若草の口が開く。


「生きてる間だって、死んだあとだって」


 そこまで言うと、エレベーターの後ろの鏡に若草が視線を移した。

 睨むように、それでいて不敵に特徴的な八重歯を見せて笑う。


「全部、俺なら渡さないよ」



 ポーン



 エレベーターのドアが開く。

 今さっきの二人だけの濃密な空気が、一気に静かなエントランスに流れ込んだ。

 その先にある繁華街は煌々としていた。花厳の腕は若草に掴まれたままで強く引っ張られ、いやというほどはっきりとした現実の世界に飲み込まれていく。

 エントランスを抜け、繁華街に足を踏み出せば溢れかえる人の中、手を引かれた男二人なんて群衆のひとつになってしまう。

 若草は振り返って花厳を真っ直ぐ見やる


「監督、今日はうちに寄ってよ」


 花厳の丸い、反射する眼鏡の奥で瞳が揺れていた。自分もそうなのだろうか。

 今日は何杯もアルコールを摂取したからだろうか、するすると言葉が出てくる。


「そこで聞かせて、監督が言いたかったこと」


 すぐに前に向き直り家路へと急ぐ。若草が掴んだままの花厳の腕は抵抗をしないどころか、反対の手で若草の手を包んでそっと撫でてきた。痺れるような甘い感覚でおかしくなりそうだった。

 若草の見間違いでないなら、軒を連ねる店たちのライトの色でないのであれば、酔いのせいでないのであれば……。

 花厳の顔は確かに赤く染まっていた。

 その顔をずっと見ていたいと思えるほど、愛しく色づいて。


 花厳の鳴り続けていたバイブ音は、喧噪にかき消されるように、いつの間にか止まっていた。



◇


「なんてこともあったよね」


 若草の自宅。カーテンの開いた東向きのリビングは、よく手入れされていて明るく輝いている。

 淹れたての珈琲を飲む花厳。その手の中に納まっているのは、つい先日二人で買い足したこの家で使う花厳専用のマグカップだった。

 若草は台所に立ったまま、シンクに体重を預けていた。仕事の時とは違い、その額を前髪が緩く覆っていて普段より幼く見える。その姿と、この空間の愛おしさを丸ごと一緒に花厳は珈琲を喉に流し込む。


「俺の愛が勝ったってこと」

「それはありがたい」


 若草は目を細める。

 視線は花厳から、花厳の前のテーブルへ。



 そしてテーブルの真ん中に置いてある薄汚れた封筒へ。



 「それ」が見えていないなら、花厳が何も知らないならそれでいい。

 花厳の視界に入るようにわざと置いた一通の手紙。


 あの日から絶えることなく若草に届き続ける手紙。

 一度も中身を確認したことはなく、忌々しいそれを都度燃やしてこの世から消し去っている。

 届くごとに、焼き消す事を恨むように、日に日に焦げたような匂いを放つ、忌々しい物。

 メールはあの晩から届くことはなく、若草の元には手紙のみが届く事となった。


 若草には嫌悪感すら感じる異臭を放つ手紙が目の前にあっても、花厳はなにも言ってこない。という事は、彼には見えていないか、認識できていないのだろう。花厳を襲った怪異や悪夢が犯人であれば、やはりあの手紙は物理的なものではなく対象者にしか認識できないものか、と若草は一人で推測する。

 無いものとされてしまったものは、この世に存在しないと若草は考えている。少なくとも若草が手紙を受け取っているという事実を花厳に教えない限り、花厳の世界には新たな手紙は存在しない。


 今、花厳を満たしているものは制作する喜び。そして若草への思いだけでいい。

 朝日に照らされ、珈琲を飲む花厳の黒髪が艶々と輝いている。その光景が自分の家の中に存在する幸せを若草は噛みしめながら、花厳に、そしてその手紙に向かってつぶやく。


「誰にもあなたを渡しませんよ」


 それを聞いた花厳が目を弧の字にして笑った


「へえ奇遇、私も同じこと考えてた」

「ええ……?」


 花厳にしては珍しくムードを読んだ発言に可笑しくなりながらも、自分もダイニングのテーブル、花厳の向かいの席につく。

 視界に入る封筒が二人の空間を邪魔しているように感じて、世界から消し去るように若草は封筒の上に手を置いた。

 すると花厳がその上に更に手を重ねてくる。

 何事かと視線をむけると花厳が真っ直ぐこっちを見ていた。


 冷たい目だった。


 さきほどまでの和やかな空間が一瞬で凍りつくような視線に、若草の喉が急激に渇いてひりっとする。

 何事かと問いたいのになんと問えばいいのかわからず、呼吸を繰り返していると視線で若草を射止めたまま花厳が口を開く。


「最近、若って焦げ臭い。」


 若草は心臓をじっとりと握りしめられたような苦しさに見舞われる。


「結構やなにおいだなって思ってたんだよね」

「……は」


 手の下の手紙からは今も焦げ臭いにおいがする。

 花厳にはこの手紙が見えているのだろうか。

 そしていつから匂っていたのか。いつから、この男に不快な思いをさせていたのだろう。冷や水を浴びせられたように頭の中が真っ白になっていく。

 そんな若草を観察するような目線を向けたまま花厳が話し始める。


「最初は誰にマーキングされてるのかなーって。でも正直、仕事に忙しい若が貴重なプライベートをほぼ私にくれているのに、マーキングされる相手なんていないと思うから……。そういうことしてくるものについて、私なりに色々考えたんだよ」


 花厳がゆっくりと目線を移動させる。

 その先には重なっている二人の手、そして焦げ臭い封筒がある。

 若草は先ほどまで花厳は手紙なんて見えていないと思っていた。でも、まさか……


「監督、手紙……、見えてる?」

「……見えてない。あるんだ、そこに」


 墓穴を掘ってしまったがもう遅い。重なった手に力が入り逃げられない。

 花厳は見えないと言いながら、手紙のある場所を探るように視線を向けている。いまいち手紙自体にピントが合っていないように若草には見えたため、認識自体はできないことは事実のようだ。だが、若草の発言から花厳の中の仮定を確定させてしまったに違いない。


「うんわからないな、見えない。わからないけど匂いはする」


 花厳の丸い眼鏡の向こう、先ほどまで優しく細められていた瞳。

 それが同じ形なのに光を失ったように若草には翳って見える。



「私は勝手に解決したつもりでいたけど、私の怪異はきっと終わってなかったんだね」



 そこまで言うとはーっと息を吐き出した花厳が、若草を掴んでいた手からも力を抜く。

 今度は詫びるようにそっと手の甲を撫でてきたので、若草は困惑しながら手と花厳を交互に見やった。


「勝手な憶測で私が嫉妬してたはなしだから、怖がらなくていいよ」


 ごめん、と言って指を絡ませてきた。

 早鐘を打つ胸を落ち着かせながら若草は花厳を窺うようにもう一度見る。

 まだ喉がひりついて言葉を発せられない若草を置いて花厳はつづけた。


「手紙の話をしたのは、本題があったからだ」


 先ほどの冷たい部屋の空気が和らいだ感覚に、若草も少しずつ体の力を抜いていく。


 花厳から絡めていた指先に若草も自分の指を絡ませた。

 先ほどの責めるような強さではなく、優しく抱きとめるような力で離さないとでもいうように花厳の手に力が入った。



「結婚しようよ若」



 若草がとても軽口も叩けないほど、花厳の表情は真っ直ぐで真剣な顔だった。

 作品に打ち込んでいるときの、監督としてのあの表情に近くて、でも全然違う。

 若草にとって一等好きなその表情に、この男を恋人として接した相手しか知らないであろう色の乗った瞳だ。


 結婚、結婚と言ったか、花厳勝太郎が。

 唖然としていると花厳は若草に畳みかける。


「まずは生きてる間、それから死んでからも、私たち結婚して一緒にいよう。どう?」

「どうって」

「若の気持ちを教えて」


 ぐっと一つ飲み込んだ後、若草も真剣に花厳に向き直る。

 

「もちろん、いい、嬉しい。」


 目の奥があつくなるのを感じる。自分は今みっともない顔をしているかもしれない。

 それでも今のこの時を、絶対に逃してはいけない。

 先ほどまで張り付いていたのどがうそのように、ずっと胸にしまっていた言葉がついてでてきた。


「さっきも言ったけど……もう、だれにもあなたを渡したくない。それは今後も変わらない。監督…勝太郎さん、結婚しよう。俺はあなたをずっと離したくない」

「うん、ならよかった」


 再び花厳の目が弧を描くように笑った。

 すると絡まっていた手が離された。

 花厳は立ち上がり、グーっと伸びをした後スッキリした顔で若草を見る。


「じゃあちょっとさ、出かけたいから着替えるね。若も準備して」

「ちょ、ちょっとどこ行くっていうんだ……。あっ結婚のこと? それ嬉しいけど法的な処理なんて俺たちには……」

「あっいやいや役所にいくんじゃなくて」


 いたずらでも思いついたかのような笑顔を若草に向けて花厳はつづけた。


「はじまりの祠に最後の手紙を出しに行こう。私たちが生死を越えて婚姻を結んだって」



◇



 車内は静かで道路状況のラジオが流れていた。

 花厳の勢いに流されて、あの日花厳を怪異が襲った祠があったというパーキングエリアまで行く事となったのだ。

 あの日のように車内は静かに揺れ、花厳は助手席に、若草が運転している。違う事と言えば夜ではなく真昼間だということ、二人は恋人で、そして口約束のみではあるが婚約者となった事だ。


 怪異の発端だという場所に行くなど、みすみす大切な相手を危険にさらすような真似はしたくなかった。しかし「こうと決めた」そういうときの花厳に若草はよわい。惚れた弱み、そしてなぜかどうにかしてくれると胸を預けることができてしまうような謎の頼もしさ。

 横目で外の景色をぼんやり眺める花厳をちらりと見て視線を戻しながら若草はやれやれと思ってしまう。


(この頼もしさに何度も救われてるけど、まさかこんな場面でも感じちゃうなんてなあ)


 車は流れるように、目的のパーキングエリアの駐車場に入った。

 二人は車から降りる。停めた場所までは覚えていなかったため、ひとまず公衆トイレの前に停めた。

 あの時は夜間であり、若草は用を足してすぐに車に戻る羽目になったため、パーキングの光景の印象は薄かった。

 改めてみるとそこは、自販機と屋外用のスタンド灰皿があり、古ぼけた公衆トイレと車が止まる敷地がある。そしてそこを、ぐるりと囲うように茂みがあるだけだ。

 明るいその場所は、何かおどろおどろしいこととは無縁なように、気持ちの良い風が吹いている。


 花厳はあたりを見回した後に「あったあった」といって、若草の片手を掴む。

 そのままと花厳に引っ張られるように、若草も連れだって茂みに向かう。

 花厳が立ち止まって目的の場所につく。若草から手を離したあと、屈んで、そして立ち上がる。


「お返事です。私は彼と生きてる間も死んでからも結婚してるのでお誘いには乗れません」


 そういうと、花厳は顔の前で柏手を打つ。


「ほら、若も」

「おお……、まあそういうことなので……この人は俺のものなので」


 若草は真似するようにパンパンと手をたたいて、ついでにひとつお辞儀をした。


「うんよし。返事の手紙も置いたし、祠にご挨拶もしたし。帰ろう若」

「えっ……はやいなあ」


 満足気に茂みを後にした花厳についていくために、若草もその場を後にしようとした。



 花厳が用意したと言っていた手紙を置いたと思われるその先。

 そこは何もない茂みだった。

 花厳には何が見えているのだろう。



 ただ確かに、その周辺には若草の元に届く手紙と同じような焦げたような匂いがする。

 確認するために振り返ろうとしたときだった。

 焦げるような匂いをかき消すように風上に立つ花厳が愛煙する銘柄であるキャメルを吸い始めていた。煙草の香りが漂ってくる。若草はその場で立ち尽くしながら花厳を見ると花厳もこちらを見ながら、フーと煙を吐き出していた。

 自分にこびりつく匂いを上書きするようなその行動に、言い知れぬ愛しさを感じて若草は小さく笑った。


 二度と振り返らず二人はその場を後にするために車に乗り込む。

 車内を煙草の匂いで満たしたまま、二人を乗せた車はパーキングから静かに出て行った。



 誰もいなくなったパーキングエリア、そのちょっとした片隅。

 そこには祠なんてものはない。

 手紙も、そこにはなくなっていた。最初から花厳が用意した手紙、この世には存在しなかったのかもしれない。



 何もない茂みが、静かに、風に揺れているだけだった。

 
 
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