柘榴の心臓
更新日:7月14日
筆者|路也 ジャンル|都市伝説+ちょっと不思議

「柘榴の実ってさあ」
人間の心臓と同じくらいの大きさらしいよ。と、手の中に収めた赤黒い果物を眺めて花厳が言う。彼の手に握られている柘榴の実は作画の参考用に、若草がスーパーで夕方買ってきたものだった。
「へぇー。そうなんですか」
ここは、スタジオこしろの制作室。本来は制作進行やプロデューサーが仕事をするための部屋だが、そこに今夜は何故か監督が居付いている。監督——花厳勝太郎のぞわぞわする蘊蓄を話半分に聞きながら、若草彰はガントチャートの整理を進めていた。若草の手首に嵌るシルバーのスマートウォッチは午前二時四十五分を示している。
若草の栗色の双眸が、彼のトレードマークである黒縁眼鏡の隙間から、我が監督の様子を盗み見た。花厳監督は若草の対面の席へ勝手にペンや絵コンテといった作業道具一式を持ち込み、グーッとその長い身体を、背もたれで伸ばして座っている。寝そべって海老反りする猫のような格好だ。花厳はそんな集中力散漫かつ脱力しているように見える状態ながらも、丸眼鏡の向こうの小粒の目をためつすがめつして、掌中の柘榴を観察していた。時々、手の内からぽーん、ぽーんと、その赤黒い実が制作室の天井へ向かって放り上げられている。
深夜の制作室に残っているのは、若草と花厳の二人だけだ。他のスタッフは誰も残っていない。
「柘榴の実ってさあ」
再び、まったく同じ内容のセリフを、花厳が若草に向けて呟いた。
——柘榴の実って、人間の心臓と、同じくらいの大きさなんだって。
今度は手の中の柘榴をこちらに見せつけるように掲げ、あまつさえぎゅっと、握り潰すように力を入れて見せつけてきた。若草の眉根が険しいものを含んだ。濃いクマが消えない両眼の瞼を、不機嫌に半分引き下げて花厳を睨んだ。割とユーモアは解するほうだと自負していたが、今のはちょっと悪趣味だ。金髪のプロデューサーはひとつ疲れた溜息をつくと、
「どうしてそんな、怖いこと言うんですか」
「……若は、今の『怖い』って思った?」
それを聞いて、おや? と少々アンテナが立った。頭ごなしに窘めようと思っていた気持ちを、いったん脇へ置くことにする。
若草は花厳をまじまじと見つめた。
花厳勝太郎は怖がりである。
いや正確には、怪談などの怖い話や都市伝説はネタとして好きな様子なのだが、そういったものを見聞きしたあと、花厳はしっかり怯えるタイプなのである。夏のホラーなどに対しては、季節を感じるね、風流だねと歓迎して、自ら聞きにも行くくせに、後からじわじわとスリップダメージが効いてきて、夜に一人にされると心細くなってしまうタイプなのだった。一時期、それでこしろのスタッフ内で怪談話が流行った際、花厳は単独での深夜作業が出来なくなってしまった。見かねた若草がしばらく怖い話禁止令を発令していた時期があったほどである。
「ねぇ若」
何か言ってよ。と沈黙に耐えかねた花厳に促され、
「ちょっとだけ」
怖いと思ったよ。と、ひとつまみの斟酌で味付けした言葉を返して、「どうしてそんなこと言い出したの」と続けて問いかけた。
花厳は「んー……」と手の中の柘榴の実を転がしていたが、
「よく、『幽霊なんかよりも人間のほうが怖い』って言うじゃない」
「『人怖(ヒトコワ)』ってやつですか?」
「そう。だから、幽霊よりも私のほうが怖くなったら、幽霊のほうから寄らないでいてくれるかなー? って」
「パワータイプの解決だ……」
若草は呆れて椅子に仰け反った。そして、
——でも、そうやって監督が怖がる幽霊も、動物が元なんかじゃない限り、元を辿れば人間なんじゃないかしら。
と思ったのだが、黙っておいた。俺を脅してクリエイターの進捗が保たれるなら、それでいいと思ったからだった。
その時。
こしろの階段の踊り場にある背の高い古時計が、ぼぉん、ぼぉん、ぼぉん……と歪な響きを従えて三度鳴った。
「うわっ!」
弾かれたように椅子から花厳が飛びあがり、「この音どうにかなんないの!?」と唇を尖らせて文句を言った。
「ならないですね。うちの創業当時からあるし」
「宵っ張りで作業してると集中力が途切れた隙間にこうやって音が飛び込んできてさ。本当にびっくりするんだよ。心臓に悪い」
「って言われましてもね……」
社長命令であの時報、切っちゃダメってことになってるんですよね。と若草は注釈をつけた。花厳が渋面を作って首を傾げる。
「なんで?」
「……今それ、言っていいやつですか?」
「もったいぶるね」
「だって」
——踊り場の古時計の時報を切ってはならない。時報を切ると、締め切りを守ってもらえず精神を病んだスタッフの怨念が噴き出し、以降『誰か』の声が、時報の音に混ざるから。
「っていう『スタジオ七不思議』があって……」
「なんでそういうこと言うのー!?」
花厳の喉から悲鳴に近いか細い絶叫が漏れ出た。
「だから確認したじゃないですか。『今それ、言っていいやつですか?』って」
そうでなくてもこしろには、踊り場の鏡を深夜二時二十二分に覗くと幽霊と目が合うという恐怖譚がある。花厳はすっかり鳥肌が立ってしまった二の腕を懸命にさすった。
「ていうか『不思議』なんてほのぼのした響きの中に入れちゃダメな話でしょ、それは!」
「少なくともうちに出る幽霊はそうなので……」
「あーもうこれだから歴史あるスタジオは~!!」
けなしているのか褒めているのか分からないコメントに若草は苦笑をこぼすと、
「他にもありますよ。これは監督もすでに知っている話かと思いますが、『青白い顔が作画机の下から覗いていた』とか、あとは『倉庫の天井方向から駆け回る子供の足音がしたけど、当時その部屋に上の階は存在しなかった』とか」
「イヤーッ」
ひとしきり嫌がっていた花厳だったが、はっ! と突然我を取り戻したような顔になると、
「やめてよ若!? シッ!!」
話してたら来ちゃう! と口の前にシーッ、シーッと人さし指を立てた。
「……何それ。どういうことです? 噂をすれば影、一匹見かけたら五十匹、一人見かけたら五十人ってことですか? 監督、ゴがつく黒いアイツの話してます?」
「そっちも一匹もいないでほしいけどぉ!!」
花厳が張った大声がかえって、しん……と、耳が痛いほどの静寂を深夜のフロアにもたらした。束の間の茶番が終わり、沈黙が二人の間に降りる。最後のスタッフも帰ってしまった午前三時。人のいない制作室はやたらと無音が耳に沁みた。
「……あの」
おずおず、といった感じで、花厳が小さく挙手をした。
「もう一つ提案があって」
「聞きましょう」
「スケベなことすると幽霊って散っていくらしいんだけど」
「しません」
「皆まで言ってないよ!?」
はいはい。と適当に相槌を返して、若草は手元の書類をトントンッと揃えた。もう充分に気分転換はしたでしょうという気持ちを込めて、
「制作机の下の青白い顔。踊り場の鏡。創業当時からある古時計の時報。いないはずの子供の足音。——全部そんなの気のせいですよ」
監督は想像力が豊かなんですから。と眉を下げた。思えば、血で血を洗うような惨劇が常に起きるわけでもないアニメ制作スタジオで、こういった怪談話が多いのは何故なのだろうか。おそらくだがそれは、時に完全に空想上のものを実体ある形に紙の上に降ろして表現する、それだけのクリエイティブな力量に秀でたアニメーターやアニメ監督といった人材が、ひとつところに集まって精神を削り、日々極限状態に陥りがちな中で仕事をしているからなのでは……と若草は改めて感じていた。微苦笑を滲ませて席を立ち、クリエイティブ力豊かな花厳のそばに近寄ると、
「もしかして、俺と二人で居れば大丈夫とか思ってません?」
「え?」
「おどかすわけじゃないですけど、この制作室にも怪談話はあるんですから」
聞いた花厳が硬直する。
「そうですよ? 例えば、そこの非常階段へ続く廊下とこの部屋の境目。タイルの色がひとつだけ違うでしょう? 完パケ間近なのに急に最終回を方針転換したいって言い出した監督とそれを調整しなきゃならなくなった制作進行との乱闘で、血に染まってそうなった、だとか。……あとは」
若草はチラッと花厳を見た。
「『明日の朝までにBパートのコンテ上げます!』ってプロデューサーと約束したのに、何故かのんびり過ごしてる、赤い服の男の話とか」
「……ちょっと! 前半の話はともかく、後半は若が今作った創作話でしょ」
私へのあてつけ? と花厳は気色ばんでいる。若草は、よしよし恐怖が多少薄れてきたようだ、と口角を上げると、
「あとは……これは本当の、うちのスタジオ七不思議ですけど。制作室に夜中まで居残っていると、床から顔を半分出した厳つい男が、恨みがましい目で『コンテを出せ、コンテを出せ』って」
『それはできません』
制作室の時が凍った。
しん……と先程までの沈黙とはまた異なる、冷ややかな空気が、若草と花厳をその場に縫い付けた。
「え、今の声、若……?」
「いいえ、……」
俺じゃない。そう答えようと息を吸い込んだ矢先、
『それはできません』
もう一度なめらかな機械音声が、二人しかいないはずの制作室にこだました。花厳が引きつれた声を上げる。
「若! 腕!」
「こいつだ……!」
機械音声は若草のスマートウォッチから発されているものだった。
「なんでっ急に……!」
『それはできません』
若草が掻きむしるようにスマートウォッチを外そうとするも外れず——焦りで指がもつれているのがマイナスに働いた——シルバーの電子時計は不気味な間隔で『それはできません』、『それはできません』と冷淡な音声を繰り返す。
「ああっ! もう!」
外すのを諦めた若草はスマートウォッチ側面のボタンを長押しし、強制的に電源を落とす方向へ切り替えた。一秒、二秒……ほんの数秒のことなのに、もどかしく、ひどく長い時間に感じられる。
やっと黒い画面から、フッと光が消えたのを確認して、二人の肩から力が抜けた。
「いったい、何が『できません』だったんだろう……」
「さ、さあ……?」
「誤作動だよね?」
そうじゃないと俺だって嫌だよと言い出したいのを飲み込んで、若草はいそいそとパソコンの電源を落とした。
「え。あれ? 若、帰っちゃうの?」
「ちょっともう今夜は仕事する気分じゃなくなったというか」
スマートウォッチの具合も気にかかった。四六時中連絡が飛び込んでくる若草の携帯端末と連動しているスマートウォッチは、職業上欠かせない、緊密に仕事と結びついているツールだからだ。不具合があるのなら今夜中にメンテナンスをしておきたい。
「そう?」
若が帰るなら私も帰る、と言い出した花厳を笑うことは、若草にはもうできなかった。
制作室の空調を切り、電気を消す。
ふと、電気を消す瞬間——制作室の床から顔を半分出した男の頭部が見えた気がして、若草は花厳の腕をつかむと、足早に階段を駆け下りて行った。
「えっちょっと……若!」
走る花厳の手の内から、ぽんっと柘榴が離れ、廊下の闇の奥に消えて行った。
***
後日。
「『できません』って言ってたアレ、「そのコンテは翌朝までには仕上がりません」って意味で、『できません』ってツッコミを入れていたのかもねぇ」
さっすが若のスマートウォッチ! そんなことを花厳は言って、アッハッハと後ろ頭を掻いていた。しかし——
若草は知っているのだ。翌朝、出社時に見た廊下の端。あまりスタッフが立ち寄らない、非常階段へと続く廊下の隅で、花厳が手から取り落とした柘榴が転がっていたのを。
その赤黒い実の果肉にがっしりと、深く鋭く、大人の男の大きさの歯形がついていたのを。
砕かんばかりに強く歯型のついた柘榴の実を見下ろしながら、若草は眉間を険しくしていた。
——あのまま、制作室に残っていたら、いったい、誰の心臓が齧られていたのだろう。
花厳が慌てて取り落としたために潰れ、臓物のような赤黒い中身をこぼして、甘酸っぱい、腐敗臭を放ち始めていた柘榴の実を、若草は男子トイレの掃除用トングで慎重に掴み上げると——他のどのスタッフにも、特に、花厳が見てしまわないよう、古新聞紙で厳重に封じ込んだ。
そうして、給湯室に置いてある生ゴミ箱の底の底へ、蓋をするように埋めて捨てた。
制作室の床のほうから、誰かの視線を感じたのは、きっと、気のせいなのだろう。
<終>


