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呼び子

7月13日
読了時間: 37分

筆者|日下  ジャンル|ホラー


もし、誰かに名前を呼ばれた時、あなたはどうするだろう。

 ……返事をして振り返る? そう、当然の行動だ。

 けれど、あなたを呼ぶ声は本当に人間のものだろうか?

 たとえば、こんな話がある。

 山では人を呼ぶとき、必ず二度、名前を呼ばなければいけないというのだ。

 何故か。

 〝人間ではないもの〟が、人の真似をして名前を呼ぶときは一度しか呼ばないそうだ。だから、人が人を呼ぶとき必ず二度以上呼ばなければいけない……そんな〝山言葉〟が――山のルールが、存在するのだ。

 もしも、誤って返事をしてしまったら?

 呼ばれ振り返って、誰もいないことに首を傾げる様を見た〝人間ではないもの〟に笑われるくらいなら可愛いものだ。けれどもしも、間違った道へ誘われ山奥に迷い込んでしまったら? 攫われ、二度と戻ってこられなかったら? 取り憑かれ、成り代わられてしまったら?

 ……さて。この話を聞いてあなたはこれから先、名前を呼ばれたら、どうするだろう?

――その声は本当に、人間のものだろうか? 




□□□□




 梅雨の始まりらしい曇天だった。

 空気は水分を含んで重く、慣れない登山なんかをしていることも相まって酷く息苦しい。害虫対策で長袖のウィンドブレーカーを着込んでいるから、頬へ汗が伝う様は真夏のそれだ。トレッキンググローブを嵌めた手の甲で――出発前に若草が準備してくれたものだ、軽微な怪我でも描き仕事に影響が出るかもしれないからとのことだった――雫の浮いた額を拭ってから、花厳は天を仰ぎ、斜面の先、隊列の先頭を目を細めて見つめる。

「明日、絶対筋肉痛だなぁ……」

「花厳サンは、明日じゃなくて明後日でしょ」

 ほとんど並びながら、最後尾の殿を一緒に務めていた旧知の仲のアニメーターが、にやりと笑って揶揄ってきた。確かにもう、疲労が遅れてダメージになる年齢だ。一日開けてやってくる全身の強張りや痛みに、精神まで傷つけられるなんて切ないことこのうえない。

 苦笑を返しながら歩を進めていると、ひょいひょいと軽々しい足取りで先頭を行く男が振り返ってきた。慢性的な運動不足に陥りがちのこの業界にあって、登山が趣味だと言う稀有な存在の彼は、花厳がフリーランスになる前、一番最初に務めたアニメ制作会社で仕事のいろはを叩き込んでくれた大先輩でもある。

 そして今日のこの日帰りロケハン……という名前のハイキング会の幹事でもあった。彼に付き従うような形で、山頂前のこの最後の傾斜を黙々と登っている花厳を含む一団は、再来年の夏公開予定の、オリジナル脚本のアニメーション映画のメインスタッフ達だ。

「おぅい花厳ぃ、花厳たちぃ! あともう少しの辛抱だ。気張れよー」

「はぁい、がんばりまぁす」

 ひょろひょろと片腕を上げ、頼りない声で返事をした。

 ここがどこかというと、関東近郊、都心から特急列車で一時間程で出掛けられる、とある山のハイキングコースだった。

 旧知の間柄である男に請われ、この長編アニメ映画に演出のサポートとして参加することに決まったのは、まだこんなにも蒸し暑くなる前、春先の頃だった。

 企画の仔細を伺い、仕事内容を伺い、そのほかの面子を伺い……今、花厳が席を置いているのはスタジオこしろゆえ、共にアニメ制作に邁進しているプロデューサーの若草にも最終的に相談をしたうえで、作品への参加を決めた。

 聞いていた通りスタッフのほとんどが旧くから見知った人々で、今日のこの、名目上はロケハンという名のハイキング会も和気藹々としたものだ。ただ参加者のほとんどは売れっ子で、キャリアの長い歴戦のアニメーター達。昼も夜も無く仕事に追われる職種ゆえ、体力に限界が来ているものが大半、例に漏れず花厳もそうだ。

「しっかし……こんなんじゃ……ぜんぜん……ロケ、ハン……に、なんないってぇ……!」

 今、丁度最後の傾斜だ。数歩登って膝に手を付き、また数歩登って天を仰ぎ。花厳は切れ切れの言葉を荒い息と共に吐き出す。

 休憩を挟みつつとはいえ、かれこれ二時間は歩いていた。山頂でメスティンやスキレットを使い振舞ってくれると言われた〝山メシ〟や、下山後の麓の温泉は大層楽しみだったし、一応はロケハンと言われている通り作品のイメージに合ったこの山をじっくり観察することや、ハイキングを通して久方ぶりに集まった仲間たちとの交流が主な目的で、もっと軽やかなものだと思っていたのに、これは想像を絶する過酷さだ。

 ただし、この急斜面を超えた先がようやく山頂らしくて、先頭集団は一足先に登り切ったようだ。大先輩の背負っていた使い込んだ登山リュックはもう見えない。傍ら、山道沿いに斜面に突出した大岩に手を付き体を預けながら、花厳は空に近い水筒を呷る。並んで歩いていた旧知のひとりが付き合って足を止め振り返ってくれたけれど、「これ飲んだらすぐ行く」と手短に告げた。あと一息なのは分かっている。けれどここを越えるために自分はもう少し呼吸を整えたかったのだ。

 唇の端から零れ落ちた水滴と、滴り落ちる汗とを、すっかり濡れそぼってしまったグローブの甲で拭う。さあ、行こうかと顔をあげた時。

 ふ、と。気付いた。

「……」

 今、片手を付いている大岩の向こう。急傾斜の登山道から少し外れ、木々が斜面に負けず真っ直ぐ空を目指して立つ根本に花群があった。

 白く、小さな花だ。群れて見えるのは、どうやら一本の茎から二輪も三輪も咲いているからだろう。

(背景の資料なんかになるかもしれない……)

 そう思って、今日のために防水ケースに入れ、ストラップで首から下げ落とさぬようにしていたスマートフォンのカメラを起動した。入山してからしばらくはこうやってカメラを構えて、山道や、小さな沢と丸太橋とか、休憩中の様子なんかを撮っていたけれど、登山道がきつくなってからはすっかり忘れていた。

 自身の余裕の無さに苦笑を零しながら、花厳は改めてスマートフォンを構える。山道から見た山の斜面をいわゆる〝引き〟の構図で何枚か。それから、道を外れない程度に近付き、カメラのズームを精一杯使い花をアップにして何枚か。撮影してすぐ、写真の画像をタップするとワンモーションで検索まで出来るのが最近のスマートフォンのいいところだ。グローブを口で咥えて外すと、画面の中、撮ったばかりの花の写真を突く。見知らぬ白い花の名前は、すぐに検索でヒットした。

「えーっと……へぇ、ニリンソウかぁ」

 見たままの名前が面白くて、くすりと笑みが零れた。どうやら、特段珍しい種類の花ではないようだ。確かに雑木林なんかでも見かける気がする。今の季節に咲く花なのだろうか。他にはどんな特徴があるんだろう。

 興味をそそられ、画面をスクロールしようとして。


――かざり


「はぁーい?」

 「ちょっと待って、今」と続けようと顔を上げて。

「……あれ?」

 顔を上げた先には誰もいなくて、ひとりぼやく。

 そういえば、殿を務めていたのは自分ともうひとり、旧知の彼で。彼にはさっき、水を飲んで呼吸を整えている間に自ら先に行ってほしい旨を伝えたところ。

 後ろを振り返っても、山道の遠く下の方にこれから登ってくるであろう登山客の姿が見えるだけだ。呼びかけてくるような距離じゃないし、知り合いでもない。

 では一体誰が……?

 そう思ったところで、山頂の方からよく響く、聞きなれた声が降ってきた。

「おーい花厳サーン! 花厳サァーン? 大丈夫ですかぁー?」

「あ、はぁーい! 今行きまーす!」

 見れば、とっくに頂上に近付いていた旧知の彼が振り返って、こちらに向かって手を振ってきていた。声を張り上げて応じる。写真を撮っているうちに随分遅れをとってしまったようだ。喉は潤っているし、すっかり呼吸も整った。相変わらず登山道は険しいけれど、ゴールは見えている。最後の力を振り絞って、花厳はようやく一行に追いつき、頂上へと辿りついた。

「何してたんです、しばらく立ち止まってたみたいですけど……」

「いや~、いい感じの花が咲いてたから。資料になるかなって」

 撮ったばかりの野草の写真を見せていたら、とっくに登り切った仲間たちが「やっと来た」とか「一息ついたら、山メシ作るぞ」とか「あっち、展望台になってるから見に行って来いよ」とか、あれこれ声をかけてくれた。新たに滴る汗をもう一度拭って、花厳はすぐ輪に溶け込んだ。頂上からの絶景を視界に焼き付け、記念の写真を何枚も撮りあい、仲間たちが手際よく作る山メシに舌鼓を打って。

 ひとごこちついてから、行きよりは緩やかなルートで下山を開始して、道中アニメ談義に花を咲かせる頃には、誰とも知らない声に、呼びかけられたことなんてすっかり忘れていた。







「訂正、今からもう筋肉痛来てる」

 帰路、特急列車の車中。二人掛けの座席の窓側席で、ぐったりと窓枠に肘をつきながらそうぼやいた花厳に、隣に座った仲間のひとりが「もう歳がどうとか関係ないな」と苦笑いを寄越してくれた。

 空は暮れ切って、車窓の外はもうすっかり夜だ。田畑の目立つ土地が続いているから、夜に沈んでいると外の風景はよく見えない。

 在来線よりもスピードの出る特急列車は、ガタタン、ゴトトンと、走行の音も揺れも激しいけれど、今はそれが心地良かった。温泉にしっかり浸かって汗と汚れを落として体を温めたこともあってか、もう瞼がとろとろと落ちてきた。会話を交わしていた前後の席の仲間達も口数が減って、寝息が聞こえてくる。到着までは小一時間ほどだ。自分も居眠りをしようと力を抜いて俯いたところで。


――バン!!


「うわッ」

 窓が揺れた。思わず声を上げてしまうほどに。

 在来線なんか目じゃない速度で走っているのだ。風を受けて、窓が揺れて大きな音が出ることもあるのだろうけれど。

(それにしても、随分とでかい音だったな……)

 頭の中だけでむにゃむにゃと独り言をぼやきながら、再びうとうと、うとうとと夢の世界に旅立って。


――かざり


「花厳、花厳起きろって。もう着くぞ」

「ッ~~ぁ、へ……?」

 呼ばれ、肩を揺すられ、すぐ起きた。気が付いたらもう終点の主要ターミナル駅だったのだ。座席上の荷物入れに押し込んだ自身のリュックサックを慌てて下ろし、先を行く仲間の背中を花厳は追いかけようとして、気が付く。

「……ぁ」

 今自分が立ったばかりの窓際の席。そのガラス窓に、白い手の跡がついているのだ。

「……」

 窓枠に頬杖をついた記憶はあるけれど、あんなふうにべったりと、まるで手形でもつけたように触っただろうか。いいや、こんな夜の時間の列車だ。今日一日の乗客のうちの誰かのもので、窓ガラスへ清掃の手が回らなかっただけだろうか。

 一瞬、そんな些細な事に思考が占められたけれど、はっと我に返ったらもう乗客の誰も残っていなかった。慌てて特急のホームに飛び出す。冷房の効いていた列車から比べると、息苦しいほどに湿度が高い。ホームの屋根を見ると、雨がしとしとと降り始めたところらしかった。

 ホームの中程、団子になって集まる仲間の一行に駆け寄った。花厳が加わるのを待っていてくれて、口々に今日の登山を労いあって、一旦そこで解散となる。そこから先は家が近い者同士や同じ路線を使う者同士で、それぞれ家路を辿り始めた。花厳もまた、中央線沿線に住まう仲間数人と、見慣れたオレンジ色のラインが走る電車へと乗り換える。

 休日の、夜も更けてきたこの時間。乗車率は六割程度といったところだ。座れないし、通路へ割って入り込むスペースも無くて、扉横のスペースに納まる。本日最後の話題はここから先のスケジュールについてで、「秋くらいから実作業だっけ?」とか「その前にキックオフ会あるって」とか。なんと「キックオフは名目で、ついでに次はバーベキューはどうかって言われた」なんて言っている者がいて、一同天を仰いで笑い声を堪えた。

 仲間たちが潜めた声でしてくれる他愛もない話は、心地いい疲労が揺蕩う体、その真ん中にじんわり染み込んでいく。ともすれば立ったままで舟を漕いでしまいそうなほどで、相槌を打ち頷きながらも、花厳は欠伸を噛み殺した。リュックは前に抱えるようにして持っているから、背中を扉にぴったりと預けて、少しでも楽な体勢をとりながら会話に混ざるべく口を開こうとした。

 「ほんとアクティブだよね」と。苦笑を浮かべながら述べようと思った、のに。


――バン!!


「うわッ」

 扉に預けていた背が浮くほどの衝撃と音。花厳の口からは思わず悲鳴が上がった。驚愕に跳ねた心臓はどっどっどっ、と煩く鳴っている。談笑していた仲間も皆一様に目を丸くしているし、車内の見知らぬ乗客の何人かもその音を聞いていたようで、なんだなんだとこちらに視線を向けてくる有様だ。

「……」

 肩越し、花厳は車両の扉の、窓ガラスを見やった。電車はつつがなく高架を走行していて、窓の外を見慣れた西東京の住宅街が流れていく。今はもう、がたたん、がたたん、という、ありきたりな電車のレール音が聞こえてくるだけ。

 風、それも突風ほどの威力の強い風が当たれば、ああいう音が出るだろうか。もしくは何かが車両にぶつかったのか。けれどそうだとしたら、あの音の大きさから考えると走行に影響が出てもおかしくないのに、窓ガラスには何も付着はしていなくて、物がぶつかったようにも見えない……いいや。

(……窓ガラス、曇ってる?)

 なんだ。なんなんだ。やはり何かがぶつかったのか。こういう場合、車掌だとかに連絡を入れないといけないんだろうか。

 丸眼鏡越し、三白眼を顰めて凝らし、雨粒がぽつぽつと付いているのが見える窓ガラスに鼻先が付くほど近付いて見つめてみて。

「ッ!」

 気付いた瞬間、わっと背中が粟立った。弱冷房が謳われ、人数のせいもあって温い空気が閉じ込められ、じっとりとした温度の車内だというのに、背中から脇から冷えた汗が噴き出した。

 手の跡だ。

 手形みたいにして、白い跡がついていた。

 それも内側じゃない。窓ガラスの外側。ガラス一枚隔てた向こう側に、べったりと、人の手の形をした白い跡がついていたのだ。

(なんで? 元から? 駅、乗り込むときに誰かがつけた? でも)

 ……雨が降り出してしばらく経つのに、どうして落ちないのか。

 

――かざり


「へ?」

 呼ばれ、振り返る。けれどついさっきまで最後のおしゃべりに興じていた仲間たちは皆、口を噤み、強張ったような瞳で花厳を見つめてくるだけだ。

「誰か、呼んだ……?」

 おそるおそる尋ねた。そうであれと思った。

 けれど、どこか祈るような花厳のその問いに仲間は皆、首を横に振るだけで。

「……そう」

 花厳は、呆然としながらやっと、そう一言だけ応答した。







 皆が皆、妙な後味の悪さを乾いた笑いで誤魔化しているうちに、着く駅々でひとり、またひとりと仲間が降りていく。花厳もまた西荻窪で、残る数名に「じゃあ」とぎこちなくそれだけ言ってそそくさと電車を降りた。早々に背中を向けたのは、窓ガラスを確認したくなかったからだ。

 だって。本当に手の跡がついているのを見てしまったら?

「……ッ」

 雨はあれからも止まず、すっかり気温は下がっていた。ぶる、と震える肩を擦りながら、花厳は足早に改札を抜ける。背中に背負ったデイパックの中には雨具も入れていたけれど、取り出す余裕はない。ウィンドブレーカーのフードだけを目深に被って、街灯だけがぼんやりと照らす住宅街の只中を、やたらと大股で自宅目指して無心で歩く。

 一度、二度、なんとはなしに後ろを振り返った……ふと思う。なんで今振り返ったりしたんだろうか、もはや自分でも分からない。まるで何かが後を付けてきているとでも無意識に思ったのか。馬鹿らしい。

 心の中だけで自嘲するけれど、まるで競歩のような足の速度をこれ以上緩める気には到底なれなかった。商店街を通り過ぎ、大通りを渡って路地に入り、アパートの外壁が見えてきたころにはもう半ば駆け足になっていて、外階段がカンカンカンと煩く鳴るのも構わず登りきる。冷えてかじかんだ指先で鍵を取り出し、差し込み回して、玄関に飛び込むように入った。壁にある電気のスイッチを手の平で叩くようにする。二度三度ちらついてから、短い廊下の風景がぱぁっと照らし出されて。

「っは……はー……」

 そこは朝、出発したときとなんら変わらなかった。最近掃除をサボり気味で、いささか埃でざらついたフローリングと、壁に寄せて積み上げられた実家から届けられた米や野菜なんかの段ボール箱。

「はー……ははっ」

 駅から家までの間、心の中だけで零していた自嘲をようやく口から吐き出した。

 ああ、帰ってきた。家の中も変わりはない。もう大丈夫。鍵を掛けたら、より一層強く安堵できて、大仰に息を吐き出した。

 すっかり濡れそぼったデイパックは、そのまま玄関タイルの上に落とすように置く。フードを取り払い、雨露で湿った髪を掻き上げながら、重たいトレッキングシューズを脱ぎ捨て、引き摺るような足取りで短い廊下を抜けて部屋に入った。

 壁の、電気のスイッチに触れる。明りに照らされたのは廊下と同じく、朝出てきた時となんら変わりない六畳間だ。郵便物や、いつぞやかにポケットから取り出したままの小銭やくしゃついたレシートなんかが雑然と置かれたローテーブル。壁際の作業デスクには、三十二インチモニターと、その周りに積み重なった紙束、散らばる文房具。窓際の壁にくっつけるように置いたベッドの上には、起きぬけてそのままにしてきたせいで、抜け殻みたいな格好の薄がけとタオルケットが乗っている。

 荷ほどきなんてもう明日でいい。洗濯や風呂もだ。帰りがけに温泉にも浸かって汗を流してきたのだし、もうこのまま着替えて寝てしまおう。そうしよう。それがいい。

 脱ぎ捨ててあった寝間着替わりのスウェットに着替えて、がらんどうの洞窟みたいに口を開けていた布団の中に頭まですっぽり潜り込んだ。電気は消さない。もういい。起き上がりたくない。このまま寝て、朝を迎えればいい。大丈夫、きっと朝になったらこの雨も風も止んでいる。

 そう、だから。

 この風の音。部屋に入った時から窓から聞こえているこのバン、バンという音。まるで何かが、いや〝誰か〟が窓ガラスを叩いているかのような、音。

(……聞こえない)


――バン!!


(ッ……聞こえない)


――バン!!


(うるさい、もう寝るんだ、だから)


――バン!!


(うるさい、やめろ、やめてくれ、もう……!)


――バン!!


(もう、やめてくれ……!)


 不意に、しぃんと静寂が訪れた。丸まり、包まった布団の中、瞼が痺れるほどに瞑った目を恐る恐る開けてみる。付けっぱなしの蛍光灯の光が薄い掛け布団とタオルケットとを透かしていて、薄墨色の淡い闇の中だ。タオルケットの外側も、ましてや窓の外側の様子さえも、分からない。

「っ……はー……」

 しばし強張らせていた体から、ゆっくりと力を抜いていった。なんだ。もう鳴りやんだ。一体何時まで続くのかと思った。やっぱり風か何かだったんだろう。ああよかった。これで朝までゆっくり眠、

 


――かざり



「うわああああッ!!」

 自身の絶叫で跳び起きた。部屋の中は明るい。明りがつけっぱなしだからじゃない。カーテンの隙間やら何やらから光が差し込んでいるから分かる、朝だ。

「はッ、は、はー……」

 痛いくらいに鳴る心臓を押さえつけて俯く。

 なんだ、ここはどこで、今はいつだ? 朝? 帰ってきたんだっけ? そうだ、あれからどうした? すぐにベッドに入ったんだ。そのあと、窓を叩くような〝風の音〟が聞こえてきて。そう、でもあれはまだ夜で。でも今はもう朝で。じゃあ全部夢だった? そうだとしたらどこから、どこまでが? 帰りの電車、窓ガラスについていた白い手の跡も? あの激しい〝風の音〟と、それからあの……。

「な、まえ……呼ばれ、た……けど……」

 あれも。

 あれも、夢だというのか。

 汗でべったりとした顔を両の手の平で擦りながら、花厳は細く長い息を吐く。それから軋む首を上げて部屋を見渡した。一晩付けっぱなしにした明りの下、変わらず、あちこちに雑多な物が雑然と散らばっている、何の変哲もない自分の部屋がそこにある。

「……」

 夜が明けて、どうやら雨はすっかり止んだらしい。窓際の壁にくっつけるようにして置いているこのベッドにも、カーテンの隙間から明るい朝陽が差し込んでいる。外からは、スズメの囀りとか、すぐ下の通りを行く原付バイクのエンジン音、散歩中の犬のじゃれあう鳴き声なんかが聞こえてきた。

「はー……ははッ」

 薄く、苦笑を零しながらヘッドボードに置いた丸眼鏡を掛けた。なんだ。やっぱり全部夢だったに違いない。ハイキングにくたくたに疲れた頭が見せた、現実との境界の曖昧な、悪い悪い、夢だったんだ……そういえば、帰り道の電車の中のあの窓を叩くような音も、窓ガラスについた手の跡も、名前を呼ぶ声が聞こえたのだって、あれもきっとただの偶然とか思い込みとか、そういうものだったんだろう。

 心の中で一人納得しながら、さあ、雨空の翌日の晴天を拝んでやろうとカーテンを勢いよく引いた時だった。

「あ、」

 安普請のこのアパート。引っ越し以来、碌に拭き掃除もしていなくて、うっすらと埃のついた窓ガラスに。

 びっしりと、人の手の跡が付いていた。

 薄く埃を纏っていたからこそ、余計にくっきりと分かる。窓一面。触れていないところが無いと思えるほど。薄く積もった埃が手の形に切り取られているばかりか、白い、手指の脂の跡がくっきり見えるほど。

「は、ははッ……」

 花厳は、引き攣った声で嗤ってそうして。

「……嘘だろ」

 ……そう一言零すしか、なかった。




□□□□




「へぇ、なかなか楽しそうじゃない」

 花厳のスマホを借り受け、写真データをスワイプしながら若草は朗らかにそう言った。 

「んん……まぁねぇ」

 対して、作業用のキャスター付きチェアに腰かけながら、机の上に何枚もの名刺を並べて広げている花厳はどこか気の無い返事だ。おや、と思って、若草は山頂で撮ったらしい集合写真の画像から視線を上げる。

「どうしたの?」

「んー……皆、役職も所属も、昔仕事してた時から変わってるからさ、名刺貰ってきたんだよね」

 皆、というのは昨日のロケハンハイキングに行った旧知の面子のこと。

 作品拘束でスタジオこしろの所属が長くなりつつある花厳は、普段名刺交換をしても大抵若草に丸投げをしている。けれど昨日の面子の概ねは旧くから見知った仲なので、いつものように若草に「あとよろしく~」なんて放り投げることはしない。そういうわけで今、珍しく自分の手で名刺を並べ、確認して、空き缶――いつかにお土産で配られたお菓子のものだ――の中身から古いものを取り除き、今回新しく貰った名刺を仕舞い込む……という、このご時世にしては随分アナログな方法で整理と管理をしていたところだ。

 けれど。

「いや、そうじゃなくて」

 そう言った若草の手が横から伸びてきて、するりと花厳の額に触れた。伸びた黒の前髪を優しく掻き上げ、その肉厚の手の平がぴったり押し当てられる。仕事場では不要な接触をしない恋人の不意のボディタッチに、朝起きてからこちら、ずぅんと重たいものが痞える胸が、どきりとくすぐったく高鳴った。

「熱……は、ないか」

「な、い……よ、びっくりした、なぁに?」

 そのままさらりと前髪を梳かれ、頬に手を添えられる。屈んだ若草がじっ、と顔を覗き込んできたから、思わず体ごと向いてみる。しばし見つめ合った。

「いや、調子悪そうに見えたから……疲れてる?」

 またどきりと胸が鳴る……今度は、嫌な意味で。

 問われて脳裏に蘇ったのは、バン、という窓ガラスを叩くあの音と、そこにべったりとついた手の跡。

 それから。


――かざり


 名前を呼ぶ声。

 思い出しただけなのに、耳元でまた呼ばれたような気分になって、ぶるりと肩を震わせる。

「ッ……まあそりゃあね、運動なんか滅多にしない人間にとったら、あの行程は流石にハードだったよ」

 机に向き直る振りをして、花厳は頬に添えられた若草の手から逃げるように顔を背けた。

「最初のうちはさ、道も歩きやすくてよかったんだよ」

 口早に言葉を紡ぎながら、空き缶の中、碌に整理もしていない名刺の山を一枚捲り、見ては戻す、というのを繰り返す。

「小さい沢があって、丸太橋なんか渡ったりね」

 何度も何度も捲って、確認して。見つけたら取り出して、代わりに、昨日交換した新しい名刺を仕舞った。

「頂上の手前が、すごい急斜面でさ」

 捲る……違う。捲る……これも違う。捲る……ああ、あった。これだ。そうそうこの人、前は勤め先のプロダクションが違ったんだった。

「あそこがきつかったなぁ」

「……監督、ねえ、監督」

「そうそう、白い花の写真、見た? あれが丁度、頂上前のところなんだよ」

「監督ってば……監督」

「結構な斜面なんだけど、綺麗に咲いててね」

「監督……――勝太郎さん」

 どきりとした……今度のどきりは、両方だ。

 いくら人目につかないタバコ部屋だからっていつもはひとつも気を抜かない恋人が、平素二人きりのときにしか呼ばない下の名前で呼んでくれた甘酸っぱい喜びと。

 否が応にも頭の中で再生される、昨夜の記憶――激しく窓を叩く音、人の手の形をした白い跡、名前を呼ぶ声――を何かの間違いや気のせいだと思い込みたくて仕方なくて矢継ぎ早に言葉を口にしていたのを、まるで窘められたかのように思ってしまったからなのと。

「なにか、あった……?」

 そっと、厚くて熱い手の平が優しく肩に触れた。若草が心配そうに覗き込んでくれる。きりりとした眉を寄せて、黒縁眼鏡の向こう側、栗色の瞳が揺れているように見えた。

「あ……」

 つい声が零れた。今ここで彼に、昨日の夜の出来事、その全てを洗いざらい吐露したらどうなるんだろう。 

 けれど。

「いや……なんでも、ないよ」

 やや間を置いてから、当たり障りなく返事をして視線を逸らしてしまう。

 だってどうだろう。あの窓ガラスの叩かれたような音も、そこについた手の跡も、まるでぽつんと落ちたシミみたいに不意に名前を呼ばれることも、「勘違いだ」と言われればそれまでだ。意を決して告げたところで笑われるくらいならまだしも、頭や心の心配をされたりなんかしたら堪えられない。それに何かこう、怪我をしただとか、痛い思いをしただとか、そういうことは何ら起こっていないのだから、実害がないと言えば、無い状態だ。

 ただ。

 ただただ、背筋がぶるりと震えるほどに、不気味というだけで。

「……そう、分かった。じゃあ、今日はもう帰ったら? 疲れてるんだろうし、早く寝た方が」

「――帰らない!」

 花厳のその声が、タバコ部屋の天井に跳ね返って響いた。キャスター付きのチェアを蹴って立ち上がり、若草の言葉を遮って怒鳴るような声量だった。面食らったのは若草だけではない。口にした花厳本人もはっと我に返って、焦燥に瞳を揺らしながら若草にしどろもどろに手を伸ばす。

「ご、めん……あの、今日は、まだ……残る、つもりだったから」

 今朝、まるで逃げるようにスタジオに来た。今もなお、窓ガラスにびっしりと手の跡がついているであろうあの家には、到底帰る気にはなれない。帰ったらまた、窓を叩くような音が鳴るのか。手の形をした白い跡がまた窓ガラスに増えるのだろうか。それだけならまだいい。

 あの、名前を呼ぶ声。

 あの声がまた聞こえてきて、名前を呼んできたとしたら……――どうしたらいいんだろう。うっすらとした不安はずっと、ずっとずっと、肌に纏わりついている。

「……そう」

 理不尽に怒鳴られたというのに、若草は怒りもせず、ただ静かに返事をしてくれる。花厳の様子に違和感を持っているようだけれど、言いたいことをぐっと飲み込んでいるようにも見えた。洗いざらい真実を話すことなく隠してしまった罪悪感に、ちくりと胸が痛む。

「じゃあ、俺は帰るけど……あんまり、無理しないでね」

 最後まで心配と言わんばかりの視線をこちらに送りながらタバコ部屋を去る若草を、花厳は静かに見送った。扉が閉まり、足音が遠ざかっていくのを聞き遂げて。それでようやく溜息を吐きながら、どさりと勢いよくチェアの上に腰を落とした。

 作業机の上には、あと残り数枚の名刺。それと蓋の開いた名刺入れ代わりの空き缶。そういえば整理をしてたんだっけ。どこか他人事のように、また空き缶の中の名刺を一枚一枚確認する作業を始めるけれど、その手つきは随分と鈍い。

 幾度目か、名刺を捲ってみた時だった。

「あ」

 思わず声が上がる。それが若草のものだったからだ。真っ白で、マットな材質のカード紙。印字されているのは名前と役職――まだ、ただのプロデューサーだったときのものだ。彼は今、こしろの中においては統括プロデューサーという役職なので――それからスタジオの情報と、個人の連絡先なんかが載っていて、顔写真とかロゴとか、画像は一切載っていないシンプルなものだ。初めて若草に会い、これを差し出された時のあの、彼の緊張した面持ちが思い出されて胸がそわつく。

「……」

 若草のその名刺を空き缶から取り出したのは、なんとなくだった。デスクの端、眠気覚ましのキシリトールガムのボトルに立てかけるようにそうっと置いてみる。

「よし」

 何も意味はなかった。だけど彼の名前が見えていると、肌の表面にうっすらと纏わりついているこの不安がほんの少しだけ薄れる気がした。我ながら単純だ。

 最後の名刺を缶に仕舞い、晴れて事務作業は終わった。家に帰る気になれないのはもちろんだけれど、仕事が残っているのも本当だ。それにここ、タバコ部屋なら大丈夫。だって今日スタジオに着いてから今まで、窓を叩かれてもいないし、手の跡を見つけたりしていない。誰もいない時に名前を呼ぶ声が聞こえてきたりもしていない。大丈夫、仕事に集中していれば勝手に朝はやって来る。今晩一晩、なにも起こらなかったら、きっと昨日の出来事の全てはただの勘違いとか、偶然とか、そういう類のものだったんだろう。明るくなったら一度家に帰って確認してみればいい。

 うん、それでいい。それでいい、いいのだ。

 そう自らに明るく言い聞かせながら花厳は、空き缶の蓋を閉め、袖机の引き出しに仕舞いこもうとして。

 ガタン、と。タバコ部屋の扉が鳴った。

「あれ、わかぁ~? なに、なんか忘れ物?」

 若草が踵を返してきたのだろうと思った。袖机の引き出しを閉じ、座ったまま、チェアの背もたれにぐうっと寄りかかり扉の方に声を掛けるけれど返事はない。鉛筆を持って作業途中のレイアウトのカットを捲りながらしばらく待ってみたものの、依然としてしぃんと静まり返ったままだ。なんだ、聞き間違いだったのだろうか。

 再び作業机に向き直って、鉛筆を走らせ始めようとした時だった。

 ガタン。

 扉が、鳴った。

「……」

 ガタン、ガタン。

 聞き間違いじゃない。やはり扉の向こうに若草がいるのだろうか。花厳は静かに、立ち上がる。

「………」

 ガタン、ガタガタ……ガタン。

 まるで開けようとしているけれど開けられない、とでも言わんばかりの鳴りようだった。鍵は掛けていないから入れるはずなのだけれど、ハンドルタイプのドアノブが傾ぐ様子は無い。

 花厳は、窺うように一歩一歩、ゆっくりと扉に近づく。

「……………」

 ガタガタ……。

 目の前で、扉は小さく鳴ってまたしぃんと静まり返る。

 若草やスタッフの誰かがいるのではなく、これもまた、ただの風だったのかしれないと思い直した。花厳の目線には、扉に嵌められた小さな摺りガラスの小窓があるのだ。そこには、窓より一回り小さいサイズで、煙草のイラストがプリントされたポスターが外側から張ってあって、張られたポスターの隙間から、扉向こうにいる人影くらいが確認できるのだ。

 今そこは、ぼんやりと白いままで、未だ煌々と灯っている廊下の照明の光が透けて見えるだけ。誰も立っていない証拠だった。

 けれど。

「………………誰か、いる?」

 そうっと、尋ねてみる。ともすれば独り言みたいな、ぽつんとした声だった。けれど扉の向こうはやはりしぃんと静まり返っているし、摺りガラスには影も映らない。

 なんだ。やはり風か何かか。

 そう頭では思うのに、不思議なことに体がそうと納得しないみたいに、動かなかった。静かなのに、じっとりと湿り気を帯びて重たげな……身じろぎも呼吸もしていない〝誰か〟が、そこに佇んでいるかのような。そんな気配がする気が、した。

(……開けようか)

 開けて、誰もいなければそれでいい。いないはずだ。いたとしても、スタッフの誰かか、もしかしたら本当に若草かもしれない。大丈夫。ここはスタジオ、職場、毎日毎日仕事をしている、私の小さな居城なのだから。

 そろそろと、銀色をしたハンドルタイプのドアノブに手を伸ばす。握ると、まるで氷みたいに冷たくて、手の平が張り付いてしまうんじゃないかと思った。

 その瞬間。


――バン!!


「ひッ」

 揺れた、いいや叩かれた。今、明確に扉は外から叩かれた。激しい振動は、手を掛けていたハンドルにも伝わった。花厳は弾かれたようにして手を離し、半歩後退る。


――バン!!


「ッ~~……だ、だれ……?」


――バン!!


「もしかして、若? 若なの? ちょっと、冗談キツいってば」


――バン!!


「ね、ねぇ……ねぇってば! 返事くらい、してよ……!」


――バン!!


 扉を叩くほどに強い音と入れ替わるようにして、扉のすりガラスにぬぅ、と黒い影が現れた。誰かが向こうに立っている証拠だ。ああなんだ。やっぱり誰かいるんじゃないか。本当にタチが悪い。いつぞやかに怪談で盛り上がっていたスタッフたちだろうか。流石にこれは度を越している。一言、注意でもしてやらないと気が済、


――かざり


「っ、ひ……!」

 堪えようもなく肌という肌が粟立つ。喉が引き攣って、掠れた声が零れた。

 それはあの声だった。昨日から何度も何度も自分を呼ぶ、あの声だ。

 始めは空耳だと思った。勘違いだと思った。だけど違う。もういい加減、自分の耳は誤魔化せない、言い聞かせられない。

 昨日のあの山の中で。帰り道、特急列車の中、電車の中で。ようやく帰り着いた自身のアパートの部屋で。どうしてだか自分を呼ぶ、あの声だ。平板で、硬く、どこか無機質にも聞こえる声だ。まるで、言葉を覚えたての子供が、誰かがそう呼ぶのを真似しているかのような、声だ。


――かざり


「ひ、ぃ……ッ」

 もう一度呼ばれた。思わず悲鳴をあげかけた口を慌てて手の平で覆った。摺りガラスに映る人影は、ふらり、ふらりと揺れている。まるで酔っているような動き……いいや違う。きっと、首に骨が無ければこうやって傾ぐだろうか、なんて思わされるひどく不安定な揺れ方だった。


――かざり

――バン!!


 ゆらりと、ガラス越しの影が右に傾ぐ。


――かざり

――バン!!


 今度は左。ぐるぅりと首が回るような動きをして、一層ガラスに近付いた。


――かざり

――かざり

――かざりかざりかざりかざりかざりかざりかざりかざりかざりかざりかざりかざりかざりかざりかざりかざりかざりかざりかざりかざりかざりかざりかざりかざりかざりかざりかざりかざりかざりかざりかざりかざりかざりかざりかざりかざりかざりかざりかざりかざりかざりかざりかざりかざりかざりかざりかざりかざりかざり


「っ、っ~~~……!」

 ずるり、ずるりと、力の入らない足で後退っても、扉から目が離せない。耳朶に爪を立てるほど強く耳を塞いでも、呪いのようにその〝声〟は鼓膜を侵してくる。もう限界だった。朝から何も口にしていないのに、酸っぱいものが込み上げてくる。止めてくれもう限界だ。これ以上名前を呼ばないでくれ。気が狂いそうだ。返事なんかしちゃいけない。絶対返事をしたら駄目だ。後戻りが出来なくなる。どうなるか分かったもんじゃない。だけどもう耐えられない。いつまで呼ばれるのか。返事をするまで一生なのか。


――かざり

――バン!!


 これから先ずっと、ずっとずっとずっとずーっと。


――かざり

――バン!!


 扉を、窓を、まるで乞うように、手の跡がつくほどに叩かれ続け、名前を呼ばれ続けるとでもいうのか?


――かざり

――バン!!


 無理だ。無理。もう無理だ限界だ。

「ぁ……、は……」

 ぶるぶると震える唇を開く。もう終わりにしたくて堪らなくて、まるで焼け付いたようにひりつき痛む喉から、声を絞り出そうとしていた。

 その時だった。


――かんとく


(若だ! 若!)

 心が歓喜に打ち震えた。寸で、膝から崩れ落ちそうだったのを堪える。きっと顔色の悪かった自分を案じて戻ってきてくれたんだろう。この扉を開けて、早く迎え入れなければ。きっと彼の顔を見たら、こんな荒唐無稽で、出鱈目で、不気味な事象は霧散してしまうに違いない。

 情けなくも未だ震える体を引きずって、花厳は扉に向かおうとする。

 けれど。


――かんとく


「…………」

 果たして。


――かんとく


 その声は本当に。


――かんとく


 彼の……――〝若草彰〟のものだろうか?


――かんとく

――かんとく

――かんとくかんとくかんとくかんとくかんとくかんとくかんとくかんとくかんとくかんとくかんとくかんとくかんとくかんとくかんとくかんとくかんとくかんとくかんとくかんとくかんとくかんとくかんとくかんとくかんとくかんとくかんとくかんとくかんとくかんとくかんとくかんとくかんとくかんとくかんとくかんとくかんとくかんとくかんとくかんとくかんとくかんとくかんとくかんとくかんとくかんとくかんとくかんとくかんとく


「うわあああああ――――ッッ!!」

 とうとう、とうとう堪えきれなくなって絶叫が口から迸る。

 違う、アレは若の声じゃない。若なんかじゃない。摺りガラスの向こうに映る人影だって違う。だって、今にも首が捥げて落ちそうなほどにぐらんぐらんと揺れていて、摺りガラスに額がぶつかりそうなほどだ。それで一層はっきりと頭の形が見えた……人じゃなかった。人なんかじゃなかったのだ。まるで、子供が粘土を捏ねてまるめてくっつけたような、無邪気で、けれど冒涜的な造作をしているのが、摺りガラス越しにも分かったのだ。


 今、この扉の向こうにいるのは……――、。


「ッは、はぁ……はぁ……!」

 とうとう花厳はよろめいてしまい、資料棚に肩がぶつかった。紙束や書籍がバサバサと床に落ちる。踵で、ゴミ箱を蹴ってしまった。ガラガラと中身がぶちまけられるけれど、もはやそんなこと気に掛けてもいられなかった。

 ただ扉から目が離せない。扉の向こうから絶えず呼ぶ「かんとく」という声は止むことがなかった。扉一枚隔てた向こうにいるその〝化け物〟が、今にもあのドアノブを捻り、この部屋に入ってくるかもしれない……そう思うと、頭も心も真っ黒に塗りつぶされてしまったみたいに、何の策も手立ても考えることができない。

 ぶるぶると震えながら後退る背中に、作業用のチェアがぶつかる。扉から目を離せないままそれを押しのけ、また一歩後退った。虚空を彷徨った手が作業机に当たる。鉛筆とストップウォッチを巻き込んで、レイアウト用紙までも床に落ちた。横目に、眇めた瞳で見下ろして……気付く。机の上、これも巻き添えなのか、倒れたガムボトルの下敷きになるように一枚の名刺があった。

 若草の名刺だ。


――かんとく


(ッ~~若、若っ……わか……ッ!!)

 藁にも縋るような気持ちだった。引き掴み、〝若草彰〟の文字がくしゃくしゃに歪むのも構わず、両手で名刺を握りしめる。


――かんとく


 その手を額に押し当てて、祈るような気持ちで目を瞑る。


――かんとく


 未だ扉の外からは、若草を騙る〝何か〟が花厳を「かんとく」と呼び続けていた。この、たった一枚の若草の名前の刻まれた名刺が、握りしめればぐしゃぐしゃに歪んでしまうような頼りない紙片が、ともすればアレに返事をして全て終わらせたくなってしまうような絶望を抑え、擦り減りゆく魂をかろうじて此岸に繋ぎ止めてくれるような気がした。


――かんとく


 違う。お前じゃない。


――かんとく


 お前なんかじゃない。


――かんとく


 お前なんかに呼ばれても、返事をするものか。


――かんとく


 だってお前は〝違う〟のだから。

「っ……わか」

 私を呼ぶのは。

「わ、か……」

 繋ぎ止めるのは。いつだって想ってくれるのは。愛してくれるのは。愛しているのは。


「……――若ッッ!!」

「監督ッ……――勝太郎さん!!」


 呼ばれた。

 扉が開いたのが見えた瞬間、狭まっていた気道に急に酸素が送り込まれたような気がした。鋭く短く息を吐き、吸う。途端に足から力が抜けて座り込んでしまう。

 指先が白くなるほど力を込めて名刺を握りしめ続け、額に押し当てていた手をだらりと下げるのと。

 紙束や本やペンや、あれこれが散らばり落ちたタバコ部屋を大股三歩で突っ切って駆け寄ってきた若草が、花厳の肩に腕を回すのが同時。

「しっかりして、勝太郎さん! 勝太郎さん……!」

「うん、若……――若、だぁ……」

 疲弊し、くたびれきった花厳はそれでようやく、返事をすることができたのだ。




□□□□


 


「お待たせ、若」

 スタジオからほど近いクリニックの駐車場。見慣れた黒の車の助手席の扉を開けると、運転席でスマートフォンを触っていた若草が弾かれたように顔を上げる。きっと仕事の調整をしていたのだろうに。申し訳なさにむず痒くなったうなじを掻きながら、シートに腰かけた。

「診察は? どうだった?」

「えーっと……過労と、寝不足による貧血って。今日は安静に、だそうです」

「そう……とりあえず、大事なくてよかった」

 大きく深い溜息を吐きながら、若草はハンドルに重ねて置いた手の甲に、額を預けた。随分と心労を掛けてしまったようだ。気まずさからぼそぼそとした声で「ごめんね」と言って、花厳はシートベルトを締める。

「処方箋は?」

「いいや。特には」

 尋ねながら、きっと待っている間に買っておいてくれたであろうスポーツドリンクのペットボトルを寄越してくれる。実は二本目だ。起きてすぐ口にしろと渡された一本は、この病院に送ってもらうまでの間にとっくに飲み干していた。本当に何から何までよく気のつく男だこと。ありがたく受け取って封を切る。爽やかな甘さが乾いた喉に染み渡るのを感じながら花厳は、昨晩から今朝までの、怒涛の出来事をぼんやりと頭の中で思い返した。

 一度は帰宅したものの、やはり花厳の疲労の色が濃く残った顔色を案じた若草は、差し入れ代わりに夜食や栄養ドリンクを買ってスタジオまでとんぼ帰りをしてきたらしい。タバコ部屋までやってきて中を覗いてみると、なんと花厳がひどく憔悴しきってしゃがみこんでいたところだったのだという。転倒か、病気か、一体どういうことなのか……とてもじゃないけれど正気ではない花厳の様子に、「胸が潰れるかと思った」とのことだった。

 大慌てで駆け寄り抱きかかえたら、花厳はまるで、糸がぷつんと切れたように眠りに落ちてしまったらしい。居残っていた数名のスタッフの手を借りながら、ぐったりとした長身痩躯をなんとか応接室のソファに横たえさせ、朝までまんじりともせず付き添ってくれたのだという。

 そうして朝を迎え、ようやくぼんやりと覚醒した花厳のことを車に詰め込み引き摺るようにして病院に連れてきて……それで診察が終わったのが今というわけだ。

 診察室まで付き添おうとした若草を止めた花厳は、医師に向かって、慣れないハイキングやその晩に十分な睡眠を摂れなかったこと、昨日は朝から何も口にしていないことだけを当たり障りなく説明をした。それから恐る恐る「そういう時に……名前を呼ぶような声が聞こえたり、とか……そういうことってあり得ますか」なんて、それとなく尋ねてみたのだ。

 医師からはあっさりと「そういうこともありますよ」と、それこそ当たり障りのない返答をもらっただけ。ただ、体力の限界からくる幻聴と判断されたようで、それで花厳は口を噤んだ。

 だって、「そうじゃなくて」と否定の言葉を続けて、昨日の出来事の全てを詳らかに説明することなんかできなかったし、聞いてくれたとてきっと心療内科か精神科か、メンタルを案じられて紹介状を書かれるのがオチに決まっているのだから。

 扉をひっきりなしに叩く音が聞こえてきて。名前を呼ぶ声が、聞こえてきて。明らかに人ではない何かの影が、見えて……そんなこと説明したって、どうせ誰も信じてなんかくれないのだから。

「じゃあ、家まで送るから」

「えっ」

 エンジンを掛けた若草に向かって驚いた声をあげてしまったけれど、黒縁眼鏡越しにじろりと睨まれた。

「当然でしょ。まさか、仕事するつもりだったの?」

「いや……あー……」

 つい声が淀んだ。けれど若草は構いもせず大通りに入り、スタジオへ戻るルートではなく、花厳の家の方角にハンドルを切ってしまう。もう何も言い出せず、花厳は口を閉ざして、窓の外の流れゆく街並みをぼんやりと眺めはじめた。

「……」

 あの不気味な呼び声。あれは山からの帰り道、自宅、タバコ部屋でさえも聞こえてきた。一体なんなんだろうか。まるで花厳を追いかけて着いてきてしまったかのようだ。

 そうだとして、このまま家に帰った?

 もしもまた、あの声で呼ばれるようなことがあったら?

 今にも押し入りそうなほど、窓や扉を叩かれたら?

 何とも分からない、人の形をしていない化け物が、待ち構えていたら?

 不安に駆られじっとしていられず、花厳は浅い色の履き古したジーンズのポケットに手慰みのように手を突っ込んだ。冷たい指の先に、硬い何かが触れる。

(あ……)

 すぐに分かった。それは昨日、縋るように握りしめた若草の名刺だ。ウィンカーを出し、右折待ちをする若草に気取られないように、そうっと取り出してみる。

 なめらかで、マットな質感をした紙のそれは、見るも無残にぐしゃぐしゃに歪んでいた。握りしめたときの自身の憔悴の汗か、あるいはずっとポケットに突っ込まれていたせいなのか、どこか湿り気を帯びていてしけった匂いもする。

「若……ねえ、若」

「うん?」

 二つ目の通りに入り、車の流れに乗りながら緩やかにアクセルを踏む若草は、目線は寄越さないまま返事をくれた。

 昨日の夜から付きっ切りでいてくれるおかげで、普段はきちんとセットされている金の髪は今、横に流すに留めている。黒縁眼鏡の、淡い色のついた調光グラスの向こうには、栗色をした甘い双眸。いつも居付いている隈が一層濃いのは、花厳が目覚めるまで一睡もせず傍についていてくれたからだろう。

「私の名前、呼んでよ」

「ええ? 急になに」

「いいから、お願い」

 滞りなく流れる車列に乗って、助手席を一瞥した若草は怪訝そうに唇を開く。

「えーっと、監督? 花厳監督」

「うん……もう一回」

「花厳監督」

「もっと」

「ねえ、なにこれ」

「――いいから、お願い」

「っ~~花厳監督、花厳監督、花厳監督……――勝太郎さん」

 ああ。

 もうこれ以上皺の寄るところなんて無いというほど、あともう少しで破れちぎれてしまうんじゃないかというほどに名刺を握り締めながら、花厳は心の中で万感の思いを込めて呻く。

(大丈夫……きっともう、大丈夫だ)

 乾いて罅割れた大地に水が染み込むように、鼓膜にその声が、名前が、染み入った。それはあまねく体に、頭に、胸に行き渡る。体の隅々、細胞の一つ一つにまで、名前を呼ぶ若草の声が、満ちていく……もう二度と間違えないように。諦めて返事をするようなことが絶対、起きないように。

 車は、通りから住宅街へ入った。幾度か角を曲がり、見覚えのある道に出たころに、花厳の自宅アパートの外壁が見えた。ハザードランプを焚きながら、車は路肩に寄って停車した。

「それじゃあ、今日はゆっくり休んで」

「うん、そうする」

 気遣わしそうにそう言った若草が差し出してきたビニール袋の中には、昨日の夜に届けようとしてくれたエナジードリンクやカップ麺、ゼリー飲料なんかが入っていた。ありがたく受け取って、助手席から降りる。

 すっかり昼前の時間になってしまって、住宅街の真ん中とはいえ、そう長く路上に留まるわけにもいかないのだろう。若草が早々に車を発進しはじめたから、花厳は片手を上げて鷹揚な別れの挨拶をしてから背中を向けた。

 その時だった。

「監督……勝太郎さん」

 振り返る。

 見れば、発進してすぐのひどくゆっくりとした速度のままで車の運転席の窓を開けた若草が、自分を呼んでいた。

「夜、来てもいい?」

 それは、恋人としての顔をした若草の、恋人としての言葉だった。ああ、監督としてだけじゃなくて、彼はちゃんと、〝花厳勝太郎〟を案じてくれているのだ。それがくすぐったくて、若草のいじましさが可愛くて、愛おしくて、胸がきゅう、と締め付けられる。

「うん、待ってる」

 微笑み返して応えると、はにかんでくれた。その顔がまた、やたらに愛おしい。

 一つ頷いて窓を閉めた若草は、今度こそ車の速度を上げて走り去っていく。アパートの前、立ち止まっていた花厳は踵を返して、部屋へ帰るべく外階段に足を掛けた。

 瞬間。


――かんとく


「……」

 足を、一度止めた。

 けれど振り返らない。動じもしない。階段を一段ずつ登る。足取りは、どうしてだか不思議と軽い。

「……だって、もう〝理解った〟からさ」

 まるで誰かに告げるみたいにそう言って、一晩ぶりに自宅の扉の鍵を開けた。部屋に入る。安普請のアパートらしく、蝶番がキィ、と鳴りながらも、扉は閉まった。




――……

――…………






――……バン!!


[fin?]

 
 
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