七つめを知ったら
筆者|傘 ジャンル|ホラー

スタジオこしろには七不思議がある。例えば作画机の下からこちらを覗く幽霊。深夜二時二十二分に踊り場の鏡に映る『何か』。その他五つを若草は知らないが、きっと似たような話だろうと見当をつけている。
「で、なんでこうなるの」
「だ、だって」
誰もいない深夜二時の制作室。流石に見切りをつけて一旦帰ろうとしていた若草は、花厳に泣きつかれて足止めを食らっていた。彼は今日も今日とて泊まり込むつもりのようで、いかにも「私を置いていかないで」とでも言いたそうな顔でうるうると若草を見上げている。
「私を置いていかないで」
「……っふ」
想像と寸分違わない嘆願に、若草は思わず笑ってしまった。ここまで読み通りだと一周回って可愛らしく思えてくる。年上だし、目つきも鋭ければ仕事にも真摯だが、こういうかわいいところがあるのだ。それは明確に幼馴染兼恋人の贔屓目だとわかっていても、こうも甘えられると若草はいつも強く出られない。
「置いてかないのはいいけどさ、ちょっと寝かしてほしいんだけど」
「寝るの⁉ だめ!」
「もうどうしろってんだよ」
せっかく仕事に区切りはつけられたのに徹夜しろとでも言いたいのだろうか。この様子だと言いかねないのがおそろしいところだ。若草はため息を吐いた。
「……怖くなくなればいいんだよね?」
「え、うん……まあ、そう?」
恐怖を拭うという作業はなかなか大変なものだ。わからないからこわい。知らないからこわい。説明できないから、こわい。動物が己が身を焦がす火を恐れるように、人は何かが潜むくらやみを恐れるものだ。
で、あるならば。逆に、くらやみなどないと証してしまえばよい。いないということを証明するのは不可能だが、なに、そこは「怖くない」と思えさえすれば問題ない。
「じゃ、監督。ついてきて」
そうと決まれば話は早い。若草は背負いかけていたリュックサックを下ろし、スマートフォンをポケットに突っ込みながら不敵に口角を上げた。不安げな花厳にひらりと手を振って、制作室のドアを開ける。
「七不思議なんかないって、若草さんが証明してやる」
とりあえずは普段身近なところの恐怖を払拭しようと、ふたりはタバコ部屋に向かった。深夜に作画机の下からこちらを覗く幽霊。階段を上り、明かりをつけっぱなしの部屋に入る。電気代が気になるところだが、制作室に逃げ込んできたあたり、相当怖かったのだろう。後ろで「お邪魔しまーす……」なんてほざいている監督を見ていると怒る気にもなれず、若草はスマホの懐中電灯をつけた。
正直なところ、若草は幽霊の存在を信じていない。いたらおもしろいなとは思うが、恐怖を抱く感覚はよくわからない。なので物理的に解決しようと、陰になっている机の下を電灯で照らした。
「何もいないよ」
当たり前である。関係者以外立ち入り禁止のスタジオこしろに身内以外の人間(?)がいたら、それこそ怪談とか言ってられないくらいの事件だ。怖がるよりも先に警察を呼ぶべきである。
花厳も恐る恐る机の下を覗き込んだ。隅々まで視線を走らせて、明るく照らされたそこにはあと盛大に息を吐く。とりあえずこれでひとつめはクリアかなと考えて、若草は電灯を消した。
「別に制作室で作業するのはいいし、俺になら多少は無茶を言ってもいいけどさ。これが他のスタッフしかいないときも起こったら流石にちょっと、体面が悪いよ」
「……そしたら帰るもん」
「帰れない日だってあるだろ」
「私が帰れない日はだいたい若も帰れないでしょ」
「……」
ああ言えばこう言う。怖がりを改善する気はなさそうだ。若草は半目でタバコ部屋の電気を消した。
「じゃ、次。踊り場に行こう」
端末の時計を見る。時刻は二時二十一分。ちょうどいい時間だなと、若草は鏡を見つめた。
「ちなみに監督はなにが映るか知ってるの?」
「おばけ……」
「知らないのね」
踊り場の照明は最近切れてしまっていて薄暗い。総務は今週末業者が入ると言っていたので、薄暗いのはもう少しの辛抱だが、確かに怖がりな人間にはなかなか怖い場所だろう。若草も怖い。足を踏み外しそうだから。
時計の針が二十二分を指した瞬間、若草は顔を上げた。鏡の中に映っているのはいつもどおり、真っ黒な格好の若草と、でかい図体を若草の後ろで縮めて目をそらしている監督の姿。それだけであった。
「監督、見て。何もいない」
「いや若が気付いてないだけで絶対いる」
「その自信はどこから……」
ほら自分で見なさいと、若草は無理やり花厳を自分の前に突き出した。小さい悲鳴を上げながら鏡の前に立たされた彼は、観念したように顔を上げた。じっくり眺めること数十秒。
「二十三分になった」
「やっと?」
へなへなと花厳が崩れ落ちる。その頭に手を置いて、若草は「何もいなかったでしょ」と問うた。花厳はずいぶん時間をかけて頷いた。勝手がよくわかっている場所をふたつ巡っただけでこの困憊ぶり。恐怖とはかくも恐ろしいものかと、その効能に感動すら覚える。
「じゃ、次行くよ。案内して」
「えっっっ」
「俺このふたつしか知らないんだもん。監督は知ってるんでしょ?」
「……ウン……」
常々不思議なのだが、どうしてホラーが苦手な人間はその手の話に詳しいのだろう。こしろで普通に過ごしていて、七不思議がまことしやかに囁かれているのは知っていれど、若草はその内容までは先ほどまで知らなかった。しかし監督は知っている様子である。ということはどこかのタイミングで能動的に知ろうとしたということで。
まあ、知らないからこわい、を払拭したいのだろうな、と見当をつけて、若草はおっかなびっくり歩きだす花厳の後を追った。
七不思議その三、男子トイレの前から三番目の開かずの個室。一階の一番奥のトイレがそうだというので行ってみたところ、確かに前から三番目の個室の扉は閉まっていた。いたのだが。
「……個室ってか、用具入れだよ、ここ」
わざわざ脚立を持ってきて、上から様子を覗いた若草は呆れながら報告する。脚立をおさえながらはらはらと見守っていた花厳は「え?」とぱちぱち瞬いた。
「閉まってるのはトイレじゃないから。勝手に開くと中に置いてるものが出てきちゃうかもだしね」
「そ、そっか。知らなかった」
扉のへりに手をつきながら慎重に脚立を降りる。花厳は明らかにほっとしていた。その表情の恐怖の影はいくらか薄れていて、この調子ならば夜更かしをする意味もありそうなものだ。
七不思議その四、総務部に蠢く謎の影。それ絶対うちの社員だろと突っ込みつつフロアに行ってみるも、当然誰もいなかった。そもそもこしろの総務部は制作スタッフほどの激務ではなく、定時で帰れる可能性がある数少ない部署である。これから忙しくなるからとスタッフたちを帰らせたのは若草だ。一応電灯をつけて隅々まで見回るも、特段何かが起きることもなく、探索は終了した。
七不思議その五、無人のシャワー室に響く苦悶の声。これも絶対スタッフだろと若草は半目だった。どうせ壁に足の指ぶつけたとかそういうやつだろ。ここも電気をつけて見回ってさっさと終わりにしようと思ったのだが、約一名「蛇口から血が出てくるかもしれない」とか寝ぼけたことを言い出したやつがいたので、片端からシャワーのコックを捻る羽目になった。当然血なんて出てくるわけもなく、ふたりして両腕の袖を微妙に濡らしながらシャワー室を出た。
七不思議その六、乾かずの廊下。雨でもないのに滴っているのは、血か涙か。
「雨漏りってこと? そんな場所があるなんて報告、受けてないけど」
もしそんな場所が本当にあるなら、建物の劣化にもかかわる話だから、早々に報告を上げてくれないと困る。
「ちがうよ……きっと怨霊の涙だよ……」
「要するに水ってことでしょ。どっちにせよ放置はできないね」
場所は四階の隅らしい。暗い階段を上り、ふたりは噂の場所へ向かった。
「なんもないね」
「んね……」
若草の後ろをついてきた花厳が顔を出す。噂があるというそこには水たまりどころか濡れた痕すらなく、バケツの場所を思い返していた若草は肩透かしを食らった。天井を見上げてみてもやはり濡れたような跡はない。きっと雨漏りを見つけたスタッフが面白半分に流した噂だったのだろう。迷惑な話である。
七不思議もあとひとつ。つまり若草が睡眠にありつけるまでもう少しだ。ふたりはいったん制作室に戻ることにした。
そして、七不思議その七。
「は、私も知らないんだよね」
「おいおい」
ここまで来ておいて。しかし総務部に行ったあたりからどうにも調子が上向いてきていた男は、「なんでも、知っちゃいけないって話だったよ」と楽しそうに報告してきた。なんで楽しそうなんだ。
「そういう最後の一つを知っちゃいけない系って怖いもんじゃないの?」
「どうなんだろ? 逆に知らないうちは安全って感じもするよ」
「わからんなあ……」
どうにも消化不良な感があるが、まあ、花厳も知らないのならどうしようもない。そろそろ三時を回るころだ。帰るにしろ寝るにしろ、遊ぶのはこれくらいにしておくべきだろう。
「監督、結局今日どうする? 帰るなら送ってくけど」
「うーん……帰ろうかな」
「そう。じゃあほら、準備して」
若草は自席に置きっぱなしにしていたリュックサックを背負った。ごそごそとトートバッグにもろもろを詰め込み始めた花厳を尻目に声を張り上げる。
「じゃあ俺たちは帰るけど。縺翫?縺さんも早く帰るんだよ」
はーい、という声とともに、制作室の一番奥で手が上がった。制作進行に終業の概念はないと言っても過言ではない。本当は休んでほしいけれど、無理をおしてでも続けたい作業があるのなら、若草には止められない。ふたりは制作室の電気を消して、車の鍵を探り探りスタジオを出たのだった。
真夜中の車道は空いているからいい。歩行者もほとんどいないし、この時間にやっているラジオは粒揃いだ。若草はお気に入りのラジオ局に周波数を合わせてBGM代わりに流していた。
「……若、あのさ。私の記憶違いだったら申し訳ないんだけど」
「なに?」
若草がミラー越しに助手席に視線を遣る。心なしか顔色の悪い花厳が、シートベルトをぎゅうと握っていた。
「縺翫?縺さんなんて、うちに、いたっけ?」
「え、そりゃないぜ監督。何回も、喋ったこと、……」
あるでしょ、という台詞は続かなかった。ぱちぱちと何度も瞬いて、あれ、あれ、と記憶を探る。
顔が、思い出せなかった。
若草は人の顔を覚えるのは得意なほうだし、もちろん全スタッフの顔と名前は完璧に一致している。なのに。
それに、先ほどあまりに自然に口をついた名前。それを再現しようとして、その音の連なりの不自然さに冷や汗が流れる。まるで口以外の部位で言語を発音しようとしているような、そんな感覚だ。
というか、制作室のあんな端に、制作机なんてあっただろうか。制作室は机間の動線はきっちり確保しているし、几帳面なスタッフが多いから割合片付いている部屋ではあるけれど、隅の方は正直、片付いているとは言えない。機密ではないが捨てるのは恐らく困る資料の類を段ボールに突っ込んで、それが山となっているのだ。地震でも起きたら大変だなあ、どうにかしないとなあ、と言い続けて何年経ったかわからない、そんな場所なのに。
そもそも今日は。
繁忙期前の最後の休日として、スタッフ全員を早々に帰したのではなかったか。
「…………監督」
「な、なに」
花厳は半泣きだった。というかほぼ泣いていた。
「スタジオに戻るよ。あれが不審者なら見逃せない」
「うそぉ……おばけだよ絶対! 信じて!」
「ピーピー騒がない!」
若草彰は幽霊を信じていない。いたらおもしろいなとは思うが、恐怖を抱く感覚はよくわからない。しかしその正体が人間ならば話は別だ。何を考えているのかわからない人間とは、この世で一番おそろしいものだ。
ふたりはスタジオに取って返した。駐車場に着いても往生際悪くシートベルトを外さない花厳にじゃあ待っててもいいよと言うと、逆にそのほうが怖いなどと言って結局ついてきた。カードキーを入り口にかざして、真っ暗なスタジオ内を突っ切る。機密書類の類は金庫に仕舞っているが、それよりもスタッフへの害意を持った人間だったらと思うと、すぐに気付かなかった自分に苛立ちが募る。もしかしたら本当に人ならざるものなのではないのかと馬鹿な考えに至りつつある自分を舌打ちで戒めた。
勢いよく制作室のドアを開け、すぐさま電気をつける。それからずかずかと、先ほど白い手が上がったあたりまで歩く。
そこにはなにもなかった。ただ段ボールが積み重ねられているだけで、そこで作業しようという人間などいまい。
次に警備室に向かった。マスターキーで中に入ってキーボックスを開けても、そこに欠けはない。ひとまずそれにほっとして、若草たちがスタジオを出る三時間前から監視カメラの映像を確認する。不審な人物の出入りはなかった。
一連の若草の行動を見ていた花厳がへにゃへにゃの声音で言う。
「やっぱり、いるんだよ、おばけ……」
「…………そうかもね」
「否定してよぉ……」
若草だって否定したい。けれどもふたりそろってアレを見てしまった以上、やっきになって否定するのは無理がある。
「こういうのってさ、怖い話すると呼び寄せるっていうよね。こうして話してる間も、……」
花厳がぶるっと震えた。何か良からぬことを想像してしまったのだろう。せっかく時間をかけて七不思議を否定しにていったのに、これでは振出しどころかマイナスだ。
「みんな、明日も怖い話してるのかなあ……」
「そうかもね」
「ひぇ~ん……」
「泣いちゃった……三十路の大男が……」
いやもちろん号泣ではないが。泣き真似をする花厳にため息を吐く。仕草こそコミカルだが、本気で怖くなければこんなことをするやつではない。これで仕事にならないのが一番困る。
「まあ…… そうだな。そのへんは俺が何とかするから」
「できるの?」
「できる。というか、する」
プロデューサ―権限で。社員証を掲げ、つとめていつものように笑ってみせる。花厳は「ホラーバスターだ」とかなんとか言っている。なんだそれはと笑い飛ばすと、ようやっと八の字だった眉が元の形に戻ってきた。
帰るよと花厳をせっつっきながら、怖い話はしばらく禁止にしよう、と若草は明日の申し送りの内容をきめたのだった。
終


